海の星座

光を射す言葉を。

「らしく」在ると云うこと -BURNOUT SYNDROMES "孔雀"-

一際目立つピーコックグリーンのジャケット。
孔雀、と名付けられたそのアルバムは、射抜くようにこちらを見つめている。

 

BURNOUT SYNDROMESの「らしさ」とはなんなのだろう。
彼らが自ら掲げる「らしさ」と、他人が彼らに投影する「らしさ」は果たしてどこまで重なるものなのだろうか。このアルバムはまさにその隔たりを象徴することとなったように思える。

 

メジャーデビュー前は当然のことながら、2016年にリリースされた1stアルバム「檸檬」から見ても、明らかに今作では成長が見られる。3人の強固な結束力から生み出される豊かな音色と物語の深みがあるが故に、そこにアレンジとして付加されていく音はどれほど挑戦的であっても美しくはまり、彼らの可能性をどんどんと広げてゆく。そういった音楽的なスキルや音の振れ幅に加え、歌詞そのものやその主人公の年齢、ひいてはBURNOUT SYNDROMESの3人が確かに年齢を重ねていることがこのアルバムからはうかがえる。それを是とするか非とするかは聴くものに委ねられるが、事実として、彼らは成長している。

檸檬」が青春色の強い、みずみずしいエネルギーと、その青春特有のほろ苦さを含んだものであったのに対し、《生命よ青春せよ 血を滴らせて/人生を慟哭せよ 美しい君よ》(M.01 ヨロコビノウタ)、《花一匁 花一匁/応 むざむざ斬られて堪るか》(M.02 花一匁)など、今作「孔雀」にあるのは生を謳い、今ある現実を受け入れながらもそれに堂々と立ち向かっていく、青春の残り香をまとわせながらもわずかに大人びた姿だ。
それは、今までの彼ら「らしさ」とは大きく異なる姿だ。きらめく青春を謳歌するクラスメイトを横目に見ながら、教室の隅で本を読んでいたその姿は見えない。青春を過去とした彼らは、クラスの中心で友人たちに囲まれるような少年少女が憧れるロックヒーローになった。その詞の中にかつてのような死の影はない。鬱屈した絶望もなく、そこには希望に満ちた未来があり、生きる喜びがある。まるでそんな過去はなかったかのように、ずっと彼らは大通りの真ん中を歩いて来たかのように、鮮やかな尾羽を広げた孔雀を世に放った。やはりなんとなく、「今までの彼ららしくない」姿として写った。

彼らの名がどんどんと世に出るにつれ、彼らは変わっていった。ファンの世代も若くなり、アイドルを見つめるように彼らを見つめた。何が原因というのでもないのだろう。あるいはバンドの頭脳であり心臓である熊谷和海の心の在り方がこれまでと変わったというだけのことなのかもしれない。ただ、彼らは変わった。それが良い変化なのか、はたまたその反対であるのか、誰にも断定できることではない。しかし私には、FLY HIGH!!ヒカリアレ、さらには花一匁の系譜を遡った先のあの青春の仄暗さは、人生にわずかばかり影を落とすような昏さは、誰でもない彼ら自身の手で過去のものとされてしまったように思われた。それはライヴで演奏しないなどといった目に見える形ではなく、「そんな時代もありましたよね」と記憶の中から引っ張り出してくるようなかたちの、「過去」。

 

しかし、バンドを動かすのが人間である限り、全ては流れ、変わりゆくものだ。熊谷はこの作品の根底にあるテーマを『「らしさ」を愛する』こととしたという。らしくあるというのは、あるがままであるということ。それを愛するということ。ならばこのアルバムは、今のBURNOUT SYNDROMESにしか生み出せない、彼ららしいものなのだろう。そうやって、彼らがあるがままで音を奏で、言葉を紡ぎ続ける限り、彼らは長く愛されるはずだ。ただ、彼らが、音楽コンテンツの一つとして、ちやほやされるのみで「消費」されてしまわないことを願う。