海の星座

光を射す言葉を。

What have I sought in live concert?

これは、配信ライヴにいまいち乗り切れなかった筆者が初めて配信ライヴを見た話だ。ライヴレポートでも批評でも何でもない覚書。

 

世界が変わりだしてから、気づけば半年が過ぎた。例えば去年の夏、誰がこんな未来を想像できただろうか。誰がこんな、夏フェスにもライヴハウスにも行けない無音の夏を想像できただろうか。
思えば、「音楽が好き」はそのまま「ライヴが好き」に直結することが多く、ライヴハウスやフェスのような「密集」が忌避されるようになってしまった今、音楽好きはただ家や通勤・通学途中にイヤホンで聴くだけではどうも満たされないまま、あのかつての日々が戻ってくることを願いながら日々を過ごしている(はずだ)。というか、筆者がそうである。確かにライヴハウスに通う頻度は一時期に比べて落ちていたが、「行かない」という選択をしているのではなく、「行けない」という状態を強いられているのはやはり堪える。選択の自由の尊さをこんな形で知ろうとは思わなかった。

ちょうど某新型ウィルスがじわじわと日本に迫りつつある中で幕を開けたBIGMAMAのRoclassick tour 2020は、幾公演かを数えたところで止まっていたが、4月に入ってから、延期をアナウンスしていた公演も含めた全公演の中止を決定した。誰も望んでいない形でのツアーの閉幕、さらにドラマー・リアド偉武のいる5人のBIGMAMAのラストライヴすら叶わず、彼らは5月11日、5人から4人になった。どうやって新章を描き始めるのか、綴り始めるのか、ラストライヴなり、ファーストライヴなり、これまでだったら区切りは如何様にも付けられたはずなのに、この未曾有のパンデミックはその可能性も狭めに狭めた。そんな中であっても、彼らはやはりライヴをすることを選んだ。それはファンのためであり、同時に誰あろう音楽家であるBIGMAMA本人たちのためでもあったのだろう。音楽家は音楽でしか救えないし、音楽ファンは音楽で救えるのだ。7月20日に発表された新体制のBIGMAMAのファーストライヴはギリギリまで調整を重ねられ、最終的に無観客有料配信ライヴという形をとっての開催となったが、手探りの中でも彼らは実に彼ららしいライヴをした。

フロアを自由に使えることを利用してカメラの数を増やすことで、よく練られたカメラワークを展開させたり、従来ならステージ後方のスクリーンに映すグラフィックをスクリーンの代わりに配信画面に乗せたり、はたまたフロントマンである金井政人がステージを降り、会場入口まで歌いながら出たりするなど、いつも通りにステージ上で演奏するというライヴの形に加えて、そこにオーディエンスがいないからこそできる演出を落とし込むことで、今この時勢の中でできる最大限の「ライヴ」を作り上げたと言える。もちろん、それが「いつも通り」にできなかった中でやっとの思いでたどり着いたというところに多大な意義があるのは言うまでもないのだが、今回「We Don't Need a Time Machine」という形でBIGMAMAが提示してくれたライヴの形は、むしろこれまで、特別生配信やら過去のライヴ映像やらで画面越しにライヴを見る時に「何とかならないかなあ、いや無理だよなあ。だっておこぼれみたいなもんだもんなあ。」と思っていたところが全て改良されているものだった。スクリーンに映す映像をそのままこの画面で見せて欲しいとか、オーディエンスじゃなくメンバーを見せてほしいとか、そういうわがままが叶えられてしまっているのだ。これまで配信ライヴにどこか馴染めないでいた筆者が「これ、十分にアリだな」と思ったのはそんなわけである。

しかしその一方でやはり「ライヴが見たい」と思ってしまったのもまた事実だ。相変わらず、しぶとく、「体験」にこだわっている。確かにクーラーの効いた部屋で、好きな飲み物を片手に眺めるライヴは快適だ。座っていられるし、目の前を人で遮られることもなければ、頭上を人が転がっていって、ひどい時には脳天にかかと落としを食らうなんてことも、家ならばない。友人とLINEで実況をしながら見てもいいし、シンガロングしても迷惑にならない。それでも、そんなメリットをどれだけ並べても、「生の体験」であるライヴに勝るものにはならない。全く別のものとして楽しむ分には十分にいい。それは先述の通りだ。しかし、それはライヴではないような気がしている。ビリビリと肌に感じる音の振動や、耳に心に突き刺さってくる音や歌声、求められたシンガロングやコール&レスポンスで声を張り上げた後の喉の疲れ…そんな非日常の数々こそが、私にとっては生きている、生の、"Live"に違いないのだ。

ただひとつだけ、あえて念押ししておくべきだろう。兎にも角にも、プレイヤーとオーディエンスが時間と音楽を共有することは、その事実自体が、快く楽しく素晴らしいものだ。画面の向こう側とはいえ、時を同じくして、新木場STUDIO COASTBIGMAMAが奏で、歌い、あれだけ清々しく楽しげな表情を見せてくれたということがそれを証明していたと言えよう。