海の星座

光を射す言葉を。

夢と現のはざま、のような。

先日のことである。マンチェスターでのアリアナ・グランデのコンサート会場のすぐ外で自爆テロ事件が起きた。その一報を聞いた時の、「またか」という落胆。パリでも同様にライヴハウスが狙われたことは記憶に新しい。それを受けての「またか。」である。言ってしまえば、このご時世だ。私個人がそういう「音楽の場」に関わる話に敏感になってしまっているだけで、ほとんど毎日のように世界のどこかでテロは起き、罪もない人々が宗教や政治というどうしようもない大きな勢力の摩擦に巻き込まれて傷を負い、命を落としている。

でも、それでも、音楽の場がその暴力の標的になることが悔しい。音楽の場はそういうものとはかけ離れた存在であって欲しいと、どうしても願ってしまうのだ。決してそれは社会的なこととは無縁であって欲しいというのではない。アーティストが社会的な発言をしてはならないなんて馬鹿げた話をするつもりもない。かつてのフォークのように、ロックンロールのように、社会を批判し、見過ごされる小さな声を拾い上げて大きく吠える存在であっていい。大衆に迎合する音楽だろうが、世界に刺々しく反発する音楽だろうが、そのあり方はなんだっていい。立ち止まって考えさせる音があれば、人を突き動かすような言葉もあるだろう。音楽を発信する側が社会派だろうが、叙情的だろうが、そんなことは問題ではない。もちろん受け取る側がどんな言葉をどんなふうに聴き、何を感じようとも、それも全く問題ではない。しかし、その音楽の場がテロ組織に、暴力的な人たちに狙われるのは違う。違うと思いたい。音楽が平和の象徴だとまでは言わないが、誰にとっても、つかの間の休息のような場であるべきだとは思っている。日常の辛いことを忘れられる場、現実に向き合って戦うための英気を養う場、大好きだと思えるものに浸って心を満たす場、そういう存在。強いていうならばオアシスだろうか。なんと表現してもいいのだが、音楽(、というか芸術全般)はそういう存在として、ある点において、世俗的なモヤモヤからは切り離されていてもいいのではないかと思う。いや、そうあってほしいと思う。だから、あの時のパリのように、今回のマンチェスターのように、いとも易々と標的となり、餌食となり、幸福で満たされたはずの空間が一瞬にして凄惨な地獄と成り果てるのが悔しくてたまらない。

 

わかっている。私がここで細々と声を上げたところでなんの解決策も生まない。音楽を神格化して持ち上げているだけだと思われても仕方ないだろう。人が万能でないように、その人が作る音楽や芸術が万能であるはずはない。だからこそ心の支えとなり得るのだ。芸術たるものこうあるべきだ、などと大仰なことを言える立場にはなく、ましてそんな知識を持ち合わせているわけでもない。これはあくまで私個人の思いであり意見だ。そう前置きした上で、重ねてこう言いたい。音楽は、あるいは芸術は、その中で何を語り、社会とどう結びつこうと構わないが、せめてその社会の摩擦の矛先が向かうところとなるべきではない、と。

 

夢と現のはざまのような、どことでも繋がっていて、どことも繋がっていないような、そんな自由な存在であれと願う。