彼らが残しゆくもの
普段は邦楽ロックにこだわって聴き、書いている私であるが、近頃世間を賑わせたニュースにはどうしても触れたくて、こうして今PCに向かっている。些か私事な話も含まれてくるが、ご了承いただきたい。
SMAPが年内をもって解散するという。
彼らはまごうことなき国民的アイドルグループだ。5人それぞれが退所ではなくソロとして籍を残すということであるので、今後も彼らの姿をテレビで目にすることはあるだろう。この1月の騒動以降の露出に比べれば、頻度は上がるのかもしれないとも思う。しかし、その彼らは「SMAP」ではないのだ。
今の年齢の半分の年だった頃、私も周囲の女の子たちの例に漏れず、きっちりとジャニーズアイドルの深みにはまっていた。ロックというものに出会うずっと前の話である。そんな私ですら、えも言われぬ寂しさに襲われているというのに、彼らのファンはどれだけ苦しく、寂しいことだろうか。想像を絶するものであるはずだ。
近頃ロックシーン界隈でも解散やメンバーの脱退、活動休止が多く見られる。先日もSuck a Stew Dryのフセタツアキ(Gt.)が、自身がかねてよりフロントマンを務めていたバンド、ヨルニトケルの活動に専念するということで年内での脱退を発表したばかりだ。そんなニュースが後を絶たない中で、毎度毎度、永遠なんてないのだと思い知る。「今」しかないのだと。分かりきったことだが、忘れてしまう。慣れていってしまう。そんな「分かりきったこと」をSMAPは地を揺らがすほどの強さで提示した。
山口百恵やキャンディーズのラストステージが語り継がれていくことからも言えるように、アイドルには「引退の美」がある。崩して言えば「美しく惜しまれながら去ってなんぼ」である。ジャニーズのこれまでのグループにも言えることだろう。しかし、それを超えてきたのがSMAPだった。40を越えてなお、第一線で活躍する姿は、「歌って踊れるアイドル」という固定観念をぶち壊してきたのだ。そしてその上で彼らは「国民的アイドルグループ」なのだ。だからいつしか思うようになっていた。「彼らは永遠にSMAPなのだ」と。そして彼らはその幻想を「解散」という形で打ち崩した。永遠など、ないのだ。
SMAPというグループは5人それぞれの才能をマルチに生かし開花させていくことでその地位を確かなものとしてきた。それぞれが得たものをSMAPという「帰る場所」に還元することで、それを大きなものにしてきた。アイドルがアイドルでありながら俳優であり、司会者であり、マルチタレントであるという形は、彼らが作ったとも言えるだろう。そして、その母体であるグループを解散するということも、彼らは成してしまう。1ケースとして前例ができる以上、今後のグループにもその選択肢を与えることになる。彼らが個々に活躍してきたことが今の若い子たちのお手本になっているのと同じように。良くも悪くも、平成のアイドルにとって、彼らは偉大すぎる。アイドル観はこれを機にまた大きく変わっていくだろう。
1月の騒動以来、生き生きとしたSMAPはいなかったのではないか。5人揃って、が今後叶わないとしても、それぞれがまた生き生きと晴れやかに笑って活動できるのなら、きっとその方がいい。そう思うのは横から眺める、ファンではない者の綺麗事だろうか。