海の星座

光を射す言葉を。

巣立ちは晴れの日に -17/07/01 ココロオークション at 見放題2017-

7月の第一土曜日。夏フェスシーズンの開幕を告げるサーキットフェス、見放題が今年も開催された。今年で10回目を迎えたこのイベント、過去にはTHE ORAL CIGARETTES、フレデリック、KANA-BOONら現在のロックシーンの最前線を行くロックバンドを輩出した、若手ロックバンドにとってはシーンに打って出るための登竜門のような存在である。そしてそんな見放題には、一番大きなBIGCATのステージでの大トリを務めたバンドは、その年で見放題を卒業するという、暗黙の了解のような、慣わしがある。事前にアナウンスをするまでもなく、解禁の瞬間にすでに、誰もがそのバンドが見放題を卒業することを知るのだ。

 

今年の大トリを務めたのは、ココロオークション。

関西イチゼロ世代の切り札と呼ばれ、毎年のように「今年こそ売れる」と囁かれ続けた彼らも、昨年ついにメジャーデビューを果たし、それでも息つく間もなく全国各地を精力的に飛び回る。そんな彼らは、見放題が生んだ最強の歌モノロックバンドと言っても過言ではない。結成から6年間、彼らは見放題に出演し続け、多くの後輩バンドが脇を駆け抜けていく中、悔しい思いをしながら、でもいつかと心に誓いながら、キャリアを少しずつ積み重ねていった。彼らの想いは、彼らを愛する人々の期待と願いは、とうとうBIGCATの一番最後のステージで、花となって咲いた。

フロアの後ろの方まで、見放題での彼らの最後のステージを見届けようと、多くの人が詰め掛けていた。フロアのBGMのヴォリュームが上がり、照明が落ちる。登場SEがかかるとともに、群青とブルーグリーンの光がステージを満たし、メンバーの影が一つずつ現れる。メジャーデビューミニアルバムのリードを飾った「フライサイト」でステージは幕を開けた。飛躍を誓ったこの曲を先頭に、疾走感のあるロックナンバー「ヘッドフォントリガー」、彼らの始まりの曲である「ナゾノクサ」も織り込み、一曲一音を丁寧に鳴らしながら、彼らはこれまでの軌跡を描いて見せた。そして本編最後には、「この景色を、今まで見せてもらった全ての景色を。」と新曲、「景色の花束」を披露。ひとつひとつの物事を大事に、真剣に、捉えて向き合って触れていく、そんなココロオークションというバンドだからこそ、鳴らせる音であり、唄える歌だと思える1曲だった。

途中、粟子真行(Vo./Gt.)は何度もなんども、感謝の言葉を述べた。見放題と一緒に育った、見放題に育ててもらったと、この6年の思い出を一つずつ噛みしめるかのようにゆっくりと言葉にした。見放題に対する感謝、そこに誘ってくれた現マネージャーへの感謝、そして、彼らに出会い、彼らを愛するファンやバンド仲間に対する感謝。その言葉のどこを切り取っても、彼らしい謙虚さと優しさが滲んでいた。ココロオークションは彼や、あるいはメンバーの誰かが先頭を切ってぐいぐい進んでいくようなバンドではない。4人が足並みを揃えて、雨に降られても壁に阻まれても、なんとかして前に進んでいくようなバンドだ。彼らの纏う軽やかな空気感の裏には、音楽に対するひたむきで静かな情熱と、寂しさを知っているが故の優しさが見え隠れする。

止まぬアンコールに応えて、再びステージに現れた彼らが最後に残したのは「蝉時雨」。その場にいる誰よりも、きっと彼らこそがこの曲を一番愛しているのだろう。ココロオークションの歴史を彩るこの夏の名曲は、どれだけ披露されても色褪せることを知らない。

 

《さあ、風向きが変わったな/夏が終わってしまう前に/僕らは今》

 

夏の始まり、彼らは慣れ親しんだホームのようなイベントを卒業した。サーキットイベントを卒業、なんて少し風変わりな習慣は、見放題というイベントをさらに特別なものにする。音楽好きの人の手で作られた、音楽好きのためのサーキット。そこで育ったココロオークションは、人を想い、手を差し伸べるあたたかいバンドだ。「誰も見捨てない音楽」を鳴らしながら、彼らはまた一歩ずつ、その歩みを進めていく。

bet on them. -17/05/31 ユビキタス at サルベージ計画番外編-

約2ヶ月ぶりに、ユビキタスのライヴを見た。

この2ヶ月の間に、休養中だったDr.ヒロキが脱退、メンバーはVo./Gt.ヤスキとBa.ニケの2人となった。ヒロキの休養中からすでに仲間のバンドに助けられ、サポートドラムを入れながら進んできた彼らではあったが、5月からは、そのあくまで一時的な、という形ではなく、正規のドラマーがいないバンドとして新たなスタートを切っていたのだ。

 

用意されたセットリストは、意外にも過去の曲に絞られていた。最新作「ジレンマとカタルシス」からは1曲もなく、ここ最近はほとんど演奏していなかった「ディスコード」が入っているという、思わず意図を読み解きたくなるような、レアで懐かしい選曲だった。ニケのアグレッシヴなベースラインは深みを増し、ヤスキの歌声はまた強さと美しさを重ね、2人のユビキタスはまたその魅力に磨きがかかっていた。サポートドラマーのNATSUKIの繊細な、芯のあるドラムとも、紡ぎ合わせて織るように丁寧に音を合わせ、新しい三角形を描いていた。

それを素直に喜ぶことができる人は、まだそう多くはないだろう。ライヴを見て安心したファンがいれば、ライヴを見たからこその埋めようのない寂しさが心に引っかかるファンもいるはずで、それを咎めることは誰にも、たとえメンバーであっても、できない。ただ、フロアで感じたあの切実さから言って、今の彼らがオーディエンスに、そしてファンに、何を語り、何を見せるのかが、これまでより大きな影響力を持っているのは確かだ。そういう意味でユビキタスにとって今は、これまでになく一番不安定な時期だと言えるかもしれない。

 

彼らはこの日、新曲「美しい日々」を披露した。その曲振りにあたって、ヤスキは「ずっとヒロキがいた時の曲をやってきたけど、ちゃんと俺らが前に進んでるっていうことを見せたい、この今の3人にしか出せへん音を鳴らしたい。」と語った。誰に媚びるでもない素直な言葉は、彼の想いは、その新曲のストレートな歌詞と彼の持ち味であるクリアで貫くような歌声と合わさって、ステージから降る。優しく、愛おしげに微笑みながら歌う姿に、今この瞬間も歌っていることへの喜びを噛みしめるような、しっかりと芯のある声に、彼がこのバンドで生きていくことに覚悟を新たにしたのだと思えた。

 

ヤスキがよく言うように、辞めてしまうこと、歩みを止めることは簡単だ。それでも、吐きそうになるほどの葛藤を越えて、彼らは進み続けることを選んだ。2人でユビキタスというバンドを守る、と宣言した。そんな2人を、今はただ、信じずにはいられない。

夢と現のはざま、のような。

先日のことである。マンチェスターでのアリアナ・グランデのコンサート会場のすぐ外で自爆テロ事件が起きた。その一報を聞いた時の、「またか」という落胆。パリでも同様にライヴハウスが狙われたことは記憶に新しい。それを受けての「またか。」である。言ってしまえば、このご時世だ。私個人がそういう「音楽の場」に関わる話に敏感になってしまっているだけで、ほとんど毎日のように世界のどこかでテロは起き、罪もない人々が宗教や政治というどうしようもない大きな勢力の摩擦に巻き込まれて傷を負い、命を落としている。

でも、それでも、音楽の場がその暴力の標的になることが悔しい。音楽の場はそういうものとはかけ離れた存在であって欲しいと、どうしても願ってしまうのだ。決してそれは社会的なこととは無縁であって欲しいというのではない。アーティストが社会的な発言をしてはならないなんて馬鹿げた話をするつもりもない。かつてのフォークのように、ロックンロールのように、社会を批判し、見過ごされる小さな声を拾い上げて大きく吠える存在であっていい。大衆に迎合する音楽だろうが、世界に刺々しく反発する音楽だろうが、そのあり方はなんだっていい。立ち止まって考えさせる音があれば、人を突き動かすような言葉もあるだろう。音楽を発信する側が社会派だろうが、叙情的だろうが、そんなことは問題ではない。もちろん受け取る側がどんな言葉をどんなふうに聴き、何を感じようとも、それも全く問題ではない。しかし、その音楽の場がテロ組織に、暴力的な人たちに狙われるのは違う。違うと思いたい。音楽が平和の象徴だとまでは言わないが、誰にとっても、つかの間の休息のような場であるべきだとは思っている。日常の辛いことを忘れられる場、現実に向き合って戦うための英気を養う場、大好きだと思えるものに浸って心を満たす場、そういう存在。強いていうならばオアシスだろうか。なんと表現してもいいのだが、音楽(、というか芸術全般)はそういう存在として、ある点において、世俗的なモヤモヤからは切り離されていてもいいのではないかと思う。いや、そうあってほしいと思う。だから、あの時のパリのように、今回のマンチェスターのように、いとも易々と標的となり、餌食となり、幸福で満たされたはずの空間が一瞬にして凄惨な地獄と成り果てるのが悔しくてたまらない。

 

わかっている。私がここで細々と声を上げたところでなんの解決策も生まない。音楽を神格化して持ち上げているだけだと思われても仕方ないだろう。人が万能でないように、その人が作る音楽や芸術が万能であるはずはない。だからこそ心の支えとなり得るのだ。芸術たるものこうあるべきだ、などと大仰なことを言える立場にはなく、ましてそんな知識を持ち合わせているわけでもない。これはあくまで私個人の思いであり意見だ。そう前置きした上で、重ねてこう言いたい。音楽は、あるいは芸術は、その中で何を語り、社会とどう結びつこうと構わないが、せめてその社会の摩擦の矛先が向かうところとなるべきではない、と。

 

夢と現のはざまのような、どことでも繋がっていて、どことも繋がっていないような、そんな自由な存在であれと願う。

しあわせの正体 -17/04/29 ラックライフ presents GOOD LUCK 2017-

顔中を口にして豪快に笑いながらPON(Gt./Vo)がこぼす。「幸せやわあ。なあ。」それにイコマ(Gt.)がのんびりと返す。「せやなあ。」

4月29日、なんばHatchで開催された「GOOD LUCK 2017」でのワンシーンである。拍子抜けするほどのほほんとした2人の掛け合いに、毎度のことながら、顔をほころばせる。「元気の押し売りのような、力強く分厚い歌声に、色とりどりのテクニカルな楽器隊の音色が重なる。」言うなればそんな風に、それぞれの個のキャラクターはかなり濃く、演奏にももちろんそれは表れる。しかし彼らの音は互いに支え合い、絡み合い、ラックライフの音楽として「正しく」存在している。それが彼らを只者じゃないなと思わせる所以ではないだろうか。

 

彼らは、なんばHatchの大きなステージに立ちながらなお、キャパ120人のライヴハウスで演奏する時と同じ空気を感じさせた。同じように幸福感でライヴハウスをパンパンにしてみせたのだ。「俺が言う『あなた』っていうのは、そこにいるあなたとあなたと、そこのあなたとあなたと…あなたとあなた、ここにいる、その全員を俺は『あなた』って言ってます。」とPONが語った通りに、彼らの音楽はフロアのまさに一人ひとりに向かって届けられていた。広い会場にいながらにして、イヤホンで聴いているかのような、最前列のど真ん中にいるかのような距離の近さを感じさせるライヴだった。彼らの音楽は、確かにイヤホンで聴いている時でさえ近く感じられる。歌詞がまさに自分の気持ちそのままだとか、自分の置かれた状況にしっくりくるとか、言わば「事実に基づく共感」を超えてしまったところで、あたかも自分1人に歌ってくれているような錯覚を起こさせるのだ。人に寄り添うことのできるバンドは決して珍しくはない。しかしそれを1000人規模のライヴハウスでも見せてしまうのだから、なんとも恐ろしいバンドである。しかしその会場の広さに関係なく、リスナーに距離の近さを感じさせられるのは、「『みんな』って言われた時に、『あー、自分は入ってへんやろなー』って思っちゃうタイプやからさ、俺が。」と笑うPONだからこそなのだろう。様々に理由をつけて一歩ひいてしまうその気持ちを、自分も入ってたらいいなというその小さな願望を知っているからこそ、その人に届くように言葉を投げる。そんなPONの、ラックライフの、全てを包み込んでしまえそうな優しさと強さこそが、彼らの作り出す幸福感の正体に違いない。

 

このGOOD LUCKを皮切りに、メジャー1stアルバム「Life is beautiful」を提げたツアーが開幕する。4人の愉快で優しい音楽隊は豪快に笑いながら、全国各地のライヴハウスを幸せでぎゅうぎゅう詰めにして廻りきることだろう。

 

響く音のスコール -17/04/27 ココロオークション『CCR UNPLUGGED』-

丸い椅子が3脚と、カホンが1つ。アコースティックギターが2本に、アコースティックベースが1本と、小さなキーボードが1台。マイクが4本。フロアに灯るライトに柔らかく照らされたステージは、その配置のせいか、はたまた柵がないせいか、いつもよりもやけに広い。

 

ココロオークションのアコースティックライヴツアー、『CCR UNPLUGGED』のファイナル公演が、4月27日、心斎橋Music Club JANUSで開催された。1月にリリースとなったメジャー2ndミニアルバム「CINEMA」から「スノーデイ」や「地球の歩き方」、昨年のメジャーデビュー盤である「CANVAS」から「フライサイト」、さらに過去に遡って「願い事」「群青」(共にインディーズ2ndミニアルバム「深海燈」に収録)といったバンドの新旧の名曲、日頃のバンド形式でのライヴではなかなか聴くことのできないレアな曲を、見事なアコースティックアレンジで披露した。さらにそれに留まらず、くるりLOST IN TIMEGOING UNDER GROUNDなど、彼らが好き、あるいは影響を受けたという他アーティストの楽曲をカバーしてセットリストに組み込むという、ファンにとってはまさしく垂涎の贅沢な夜となった。しかし今回は、そのセットリストやアレンジではなく、「アコースティック編成としてのココロオークション」を私なりに描き出したい。

 

大野(Ba.)はMCで「アコースティック編成は、決してバンドの片手間でやっているものではなくて、新しいバンドを1から作るような気持ちでやっています。」と語った。確かに、片手間とまでは言わないが、アコースティックに精力的に取り組んでいるバンドはわずかだと言える。それはどちらが格好いいとか、どちらが悪いとかという話ではなく、単純に実際問題として、バンド形態とアコースティック編成を両方同じ熱量で動かしていくというのは、アレンジにおいてもセッションにおいても、そのままつまりバンドを2つ同時進行させるのと同じだと言っていい。それをこうして明言できるという強さ。その自信がさりげなく、わざとらしくなく聞こえるのは、彼らの実力がそれを裏打ちしているからだろう。間に挟まれたテンメイ(Gt.)のコーナーでその一端が窺い知れた。そのコーナーというのも、テンメイ自作のご当地ソングを披露するものなのだが、その中で他のメンバーはほとんど即興で、テンメイのリクエストに合わせていく形でその曲を完成させていく。それはフロアからしてみれば、ライヴを見ているというよりはスタジオ風景を覗き見しているような感覚に近く、音が重なって1つの曲になっていく過程にはシンプルながらも思わず見入ってしまうようなひそやかさがあった。たとえそれがコミカルなジングル風のもので、そこかしこで笑いが起きていようとも。その後その4人の和気藹々とした雰囲気はそのまま、ふわりと、ライヴの本編へと流れ込んでいくのだが、弾かれ放たれる音は粒立って、ただ優しいのではなく、ただやわらかいのではなく、聴く者の心に刻み付けるような鋭さと力強さを持っていた。

バンドとして有名な彼らのライヴだという意識が働いたのだろうか、途中、その音がスコールのようだと感じた。冷たく刺すような雨ではなく、じわじわと体温を奪うような長雨ではなく、突如として激しく降り、一瞬後には何事もなかったかのようにからりと晴れるスコール。緩やかに流れる時間の中で、熱を込めて演奏されるその粒のはっきりとした音は、窓を叩き傘を打つあの激しい音によく似ていた。アコースティックと聞けば、ゆったりとテンポもスローダウンするようなイメージが未だにあるものだが、必ずしもそうではない。ギターの音ひとつとっても、繊細に爪弾かれるやわらかな音から、ジャカジャカと荒々しく掻き鳴らされる衝動的な音もあり、その幅はともすればエレキギターのそれよりも広く豊かにさえ聞こえる。軽やかそうなカホンの音色さえ、叩き方ひとつで鋭さを備え、丸みのあるアコースティックベースの音色も、時にエッジの効いた音を響かせる。そんなスコールの中で粟子(Vo./Gt)のここにいるよ、とそばで語りかけるような優しさと親しみ、聞いてよと訴えかけるような熱情を背中合わせに置いた唯一無二の声が存在感を示す。しかし、アコースティックだからと言って弱くなる楽器隊ではない。声が一人歩きするのでもない。その場しのぎでなく、その正確なバランスの良さに、アコースティックバンドとしてのココロオークションが抱く覚悟と想いを感じる。確かな形のある、言い切れるものではまだないとしても。

 

アンコール最後の曲「星座線」。次第に強さを増す雨のように音が溢れる。その日の全てを出し切らんばかりに音が、声が、重ねられていく。ぐっ、と高まりを見せた後、雨が緩やかに引くようにアウトロへと収束する。余韻を残しながら音が止み、降り注いでいた音が嘘だったかのように、夢だったかのように、周囲にざわめきが戻る。そうちょうど、スコールが上がった後の町のごとく。

熱に浮かされたような、夢を見ていたかのような、このアコースティックの感覚……と記憶をさかのぼりながら、はたと立ち止まる。Billboard Liveのあの空気だ。アコースティック・ココロオークションはいずれそこまで行けるのではないだろうか。もっとみんなといろんな景色が見たいのだ、という大野のその言葉通りに日々を重ねていけば、その先に。

始まりの季節 -LINO GRAPHが呼び起こす春風-

4月になり、もう半月が過ぎた。のんびり屋だった今年の桜もいよいよ散り始めている。

ベタなことを言うようだが、春は始まりの季節だ。今回はそんな爽やかな季節にぴったりのバンドを紹介したい。

 

大阪に、LINO GRAPH(リノグラフ)という、音在輝志(Vo./Gt)、木村太一(Gt.)、堺沙彩(Ba.)、下村茉李(Dr.)からなる4ピースバンドがいる。

昨年12月に、それまでサポートメンバーであった木村を正式メンバーとして迎え入れ、同時にバンド名も「アンジー」から改名した。そう聞けば、アンジーなら知ってると思い当たる人は多いかもしれない。そう、彼らの音楽がまさに、春の儚さと晴れやかさに誂えたように似合うのだ。春の足音が聞こえ始める3月中旬、大阪・福島2nd LINEにて彼らのライヴを観た時、以前から抱いていたその感覚は確信となった。

彼らが奏でるのは決してテクニカルで完成された音楽ではなく、どちらかといえばまだ若い、粗削りな演奏と言えるだろう。MCもまだ拙さと頼りなさが漂う。しかしそれをカバーして余りあるほどの多幸感が彼らのライヴには溢れている。ライヴにおいて圧倒的な多幸感を放つバンドというのはいくつかあるが、例えば、サイダーのようにしゅわしゅわ、きらきらした幸せを空気いっぱいに満たすかのようなのがCzecho No Republic、ささやかな幸せを大きく謳い、心にそっとあたたかな火を灯してくれるようなのがラックライフ、と言えば伝わるだろうか。LINO GRAPHの持つ幸福感はちょうどそのふたつの真ん中あたりに位置する。柔らかな花びらと煌めくホログラムをいっぱいにはらんだ風が爽やかに吹き抜けるイメージ、瞬間的でありながらも確かな手触りのある幸福感である。歌詞がそう感じさせるのかもしれないし、メロディーラインの持つポップネスがそんなイメージを膨らませさせるのかもしれない。しかしその幸せの感覚というのは、何よりも先に、音在のあどけなさの残る優しい歌声によるものであり、木村の細やかなギターの旋律からくるものであり、堺のたおやかなベースラインから生まれるもので、下村の楽しげで溌剌としたリズムによって裏打ちされるものである。トゲのない4人の純真で無邪気な音の重なりは、丁寧に作られたパイのように軽やかで、掴めない「幸せ」という感覚を壊さぬようにふわりと包んでいる。

今歯がゆさの残る技術面に関してはこれからライヴを重ね、演奏を重ねていくごとにいくらでも伸びるだろう。しかし、人を幸せで満たす音楽というのは、幸せな空気で包み込んでしまう演奏というのはなかなか会得できるものではない。それを既に手の内に入れようという彼らなのだから、演奏力や表現力がさらに増せば、それに伴って彼らが放つ幸福感もはっきりと強さを増し、包みこめる世界も広がっていくはずだ。

 

例えばなんら変わり映えのしない春を迎えていても、彼らの音を聴くだけできっと、なんだか新しいことを始めたいような、なんでも上手くいきそうな、そんな軽やかな心持ちになるだろう。まだまだこれから、だからこそ、今から見つめていたい、そう思える人懐っこいバンドだ。

 

最果ての先 -17/03/12 ユビキタス LIVE TOUR 2016-2017 『カルテット』 FINAL-

この日、ユビキタスの第1章が終わった。そんな風に思えるライヴだった。

 

青白い光に包まれた渋谷WWWのステージに、ヒロキ(Dr.)の姿はなかった。完全な三角形ではない形でのライヴで、第1章が終わったなんて、そんな言葉は似合わないかもしれない。彼らは不服とするかもしれない。それでも、そう感じさせたのだ。このツアーは彼らを大きく変えた。最後の最後に音楽の女神がいたずらをしかけたかのような壁に阻まれ、それでもなんとか走りきった。ヒロキが帰ってくるまで、その壁を越えたことにはならないだろう。だとしても、このツアーは彼らにとって、一つの集大成となったように思われる。

 

ヤスキ(Vo./Gt)の歌声が、しんと静まったフロアを裂いた。まっすぐに心に突き刺さるようなその鋭さと透明感は、彼がシンガーとして、ヴォーカリストとして、そして表現者として力をつける中で、さらに強くなり続けている。その第一声で空気が変わる。その伸びやかで力強い歌声で、耳も目も心も、ステージに惹きつけられ、釘付けになる。何度その声を耳にしても、何度その瞬間を味わおうとも、決して慣れることはない。その場にいる全員を飲み込んでしまう空間を彼は一瞬で作ってしまうようになった。

「ジレンマ」、「君の居場所」、「R」と最新アルバム「ジレンマとカタルシス」から新曲の数々をドロップしながらも、彼らの楽曲の中では一番古い名曲「僕の証明」、鋭くも重いニケのベースが光る「アマノジャク」、軽やかで煌めくような「パラレルワード」と過去の作品も見事なバランスで織り交ぜ、最近の曲を知らなかろうが、昔の曲を知らなかろうが関係なく、その場にいるすべてのファンを巻き込んでいった。シリアスに胸を突くような鋭い言葉を並べたかと思えば、心にじわりと流れ込むような暖かいバラードを聴かせ、さらには心が浮き立つようなハッピーな音を降らせる。ジェットコースターのようにめまぐるしい選曲に、フロアの熱はとどまるところを知らずただ上がり続ける。急遽サポートが決まった2人のドラマーも、たった2、3日でそこまでと思うほどの、2人との完成度の高いユニゾンを見せ、演奏面において言えば、このバンドのドラマーの不在を少しも感じさせはしなかった。ユビキタスの4年をダイジェストにしたかのようなそのセットリストは、もしかすると、ヒロキがいればもっと違ったものになっていたかもしれない。しかし、この、新旧を色とりどりに混ぜ込んだセットリストだったからこそ、ツアーファイナルを飾るにふさわしいものになったと言える。

ライヴ終盤、MCはやはりヒロキの話題となった。「湿っぽくしたくなかったから」と笑いながらも、やっぱり3人で立ちたかったと、ヤスキもニケも言葉を詰まらせた。そして、誰よりもヒロキが悔しいはずだと、涙を浮かべながら、想いを一つずつ言葉にした。振り返れば、3人でステージに登らなかったことはなかった。風邪をひいても、体調が悪くても、ちゃんとその日になれば、彼らは光射すステージの上にいた。それがまさかツアーファイナルなんて、ワンマンなんて、そんな大きなステージで叶わないなど、本当に誰も思いつかなかったはずだ。時々自分自身を茶化しながらも、悔しさを隠しきれずに涙をあふれさせるヤスキとニケの姿は、胸が痛くなるほどに切なかった。「次は絶対ヒロキも連れてくるから」と歯をくいしばるようにしながらこぼした言葉には、絶対という言葉を裏付けるような意思の強さと、バンドを想い、メンバーを想う切実な愛情を感じた。この結束力の強い、3人の正三角形はプリズムのように光を取り込んで、七色に変えて放つのだと、皮肉にも一人不在の中で思い知らされたのだ。

 

そして、本編最後の曲「カタルシス」。すべてを包みこむような大きさと、光を降らせるような開放感のある演奏は、この日を、そしてさらに言えば、このツアーを締めくくるにこれ以上ないほど素晴らしいものだった。曲の最後、《君の選ぶ道を/僕は認めてるよ》と、歌詞通りに歌うのではなく、マイクも通さずに叫んだヤスキの姿に、今のユビキタスの芯を見た。誰しもが、先の見えぬ道に迷い、ジレンマの中で自分を見失いそうにさえなる。そんな中で、欲しい言葉はただ、絶対的な肯定ではないだろうか。「君なら大丈夫、わかってる。」そんな風に彼らの音は心のすぐそばで鳴る。彼らの音楽は、紡ぎ出す言葉は、聴く者の心に寄り添い、ただ全力で肯定して背中を押してくれる。そんな音楽を鳴らしたいんだと願った彼らの心は、ちゃんと音に乗り、言葉に乗り、彼らを愛する人たちに届きはじめている。今少しずつ、形になろうとしているのだ。鳴らしたいものを見つけた今のユビキタスは強いと、2ヶ月前に書いた。それを丁寧に鳴らし続けたツアーの後半戦を経て、彼らの輝きはさらに強さを増している。眩しくもあたたかく、鮮烈でまっすぐな光を、音にして降らせている。

 

冒頭、私は彼らの第1章が終わったと書いた。しかしそれはただの区切りにすぎない。物語は途切れず、彼らの創り出す世界は続く。これまでの4年の上に、これからのユビキタスがある。3人の結束力と、彼らが手にした、ヤスキに言わせるところの「武器」である楽曲の数々、そして彼らが見つけた鳴らしたいと願うもの。これはそれが揃うための第1章だったのだ。それが揃った今、彼らは次のフェーズへ駆け上がろうとしている。