海の星座

光を射す言葉を。

音の鳴るほうへ、ひかりの降るほうへ -18/06/30 sumika Live Tour 2018 "Starting Caravan" at 日本武道館-

ちょうど梅雨が明けたばかりの東京、九段下。暴力的な夏の日差しの下、“Sumika Tour 2018 Starting Caravan”と刻まれたフラッグがひらりと翻った。結成5周年を迎えたsumikaがとうとうたどり着いた武道館のステージ。彼らが万感の想いをこめて鳴らした2時間は、途方もなく美しく、圧倒的なまでの幸福感に包まれていた。

 

楽しげなメンバーの影アナから5分、すっと落ちた照明に1万人が息を呑み、鳴り響くSEとともにステージに駆け上がってくるメンバーの姿にまた1万人が歓声をあげる。瞬間、ステージからは光が溢れた。キャラバンというツアー名の通り、ステージの背後には大きなテントを模したセットが置かれ、さながら隊商の宿営地のようである。オレンジを基調にした照明の中、一瞬の空白の次に弾けたのは、「MAGIC」。その一音で、ひとフレーズで、魔法にかけられていく。日常は遥か彼方、sumikaが作り出す夢の国のような空間が広がった。そこから、人気曲「Lovers」、「カルチャーショッカー」、「イナヅマ」と新旧問わず彼らの魅力を最大限に味わえる楽曲が並ぶ。春の光のように軽やかで、夏の景色のように鮮やかな音色が、光の雨あられとなってステージからこぼれ、降り注ぎ、2階席の一番後ろまでくまなく満たしていく。角度のあるすり鉢状になった客席に囲まれながら、その歓声の真ん中で、sumikaは高らかに歌い、晴れやかに笑い、無邪気に走り回った。世界中探したってこんなに平和な場所はないと、本気で思ってしまえるような空間が広がっていた。

ちょうど折り返しのあたりでVo./Gt. 片岡健太が全員に着席を促したのち、「まいった」、「ほこり」といったメロウな楽曲をしっとりと奏で、ゆるりとした時間が訪れる。豊かで深い、こっくりとした片岡の歌声が武道館いっぱいに広がり、琥珀色のあたたかい光で包まれていくようだった。武道館という広い会場においても、どういうわけか彼の声は近い。耳元でそっと歌われるような柔らかさと優しさに思わず目を閉じて聴き入ってしまう。ふと気づけば、ステージ後方の照明はオレンジからネイビーへと変わり、夕暮れに宿営地を決めたキャラバンはそのまま夜を迎えていた。宴はまだまだとどまることを知らず、夜の深みに向かって音はさらにひろがっていく。鍵盤の上で小川貴之 (Key./Cho.)の指が自在に踊り、流れるようなうつくしいメロディーが会場を彩れば、反対側では黒田隼之介 (Gt./Cho)のエッジィで細やかな、カノンのようなギターソロが空気を飾り、ステージ後方から荒井智之 (Dr./Cho)の刻む丁寧で地に足のついたリズムがメンバーの音を受け止め、力強さを添えてまた送り出していく。「マイリッチサマーブルース」、「ふっかつのじゅもん」、「ペルソナ・プロムナード」とラストスパートをかけるように音を迸らせ、オーディエンスはますます熱を帯び、声を重ねる。あれもやりたいこれもやりたい、と言わんばかりにメンバーはステージ上を行ったり来たりして跳ね回り、最後の瞬間に向けて武道館の空気はここにきてこの日何度目かの最高潮を迎えていた。そして最新曲「フィクション」がラストを飾り、本編は華々しく幕を閉じた。興奮冷めやらぬオーディエンスは休む間も惜しいと、すぐさまアンコールを要求する。速くなったり遅くなったりしながら、まだもう少し夜更かししようと、手を打ち鳴らす。

 

sumikaは不思議なバンドだ。4人の持つ空気はとても親密でミニマルなのだが、その空気を楽曲を聴きライヴに足を運ぶファンに対しても同じような熱量と親密さで手渡す。まるでもう何年も知った仲のように。そうしながら、4人で小さなセッションを始めて、また同様に親密で小ぶりな音を作り出したかと思えば、遠くの誰かまで届くようにそれを高く放り投げて、花火のようにぱっと弾けさせる。近いところで、自分の手で作ったものを、遠くまで同じ距離感で、自分の手で持っていく、そういう不思議な音楽を作り出す。いつだって自分の感情のそばで、琴線のそばで、正しい音量と押し付けすぎない優しさをもって鳴る音楽。近いようで遠く、遠いようで近い、不思議なバンドだ。

音作りにしても、炭酸水のように爽やかなポップスを鮮やかに鳴らすかと思えば、スパイシーに皮肉の効いたロックチューンで鋭く刺す。どちらかといえばsumikaの音楽は軽やかな聴き心地でポップス色を強く感じるが、ジャジーに音をくゆらせたり、R&Bの要素を感じさせたり、シティポップ的な無機質な音を挟んでみたりと、聴き解くほどにその音楽性の豊かさと、張り巡らされた感覚の繊細さを思い知らされる。どこかからサウンドをコピーしてくる手の多彩さではなく、一度耳にしたものを自分の中で咀嚼して消化したあとに、自身の音楽の中でその時一番しっくりくるアイテムとして的確に当てはめて幅を広げていくような、テクニカルな多彩(あるいは、多才)さを感じさせる。天才的な感覚か、秀才的な計算か、そのどちらにしても彼らのポテンシャルの高さが伺え、それを思うとこれからの彼らがどう転がっていくのか、楽しみでたまらない。

 

ステージに照明が戻り、sumikaが再び駆け上がってくる。この中の誰も、まだこの夜を終えたくないのだ。名残惜しむように「下弦の月」「彗星」と立て続けに演奏し、最後に彼らが選んだのは『「伝言歌」』。片岡の想い、メンバーの想い、さらにオーディエンスの想いが全て歌声になって重なっていく。色とりどりの歌声に彩られ、武道館にはさらに光が満ちていく。

 

《伝えたい 全部あなたに/全部伝えて この言葉よ/迷わないように》

 

sumikaはこの夜、今という一瞬を抱きしめながら力一杯歌い奏で、その美しい一瞬を何百倍にも引き延ばしたような、夢のような時間を作り出した。それは今の彼らだからこそ成せたことだろう。後ろ指をさされながら夢を追った月日、悔しさに泣いた夜、喜びで世界が輝いて見えた日、折れるか折れないかギリギリのところでなんとか唄いつないだ歌。歌えなかった日々、音が溢れて止まらない時間。そのかけがえのない1日1日が、一分一秒が続いていくことの貴さや美しさ、喜び、楽しさを、一番身を以て感じているのはsumikaではないだろうか。そういう確かな実感が込められた音に宿る光は、その日を過ぎてもその場にいた人のそれぞれの生活に明かりを灯し続ける。そうしてきっとこの音楽団のキャラバンは続いていくのだ。音という光を、光のような音を、いたるところで降らせ、出会う人の心を満たしながら。そして、出会った人々の帰る『住処』であり続けながら。

「らしく」在ると云うこと -BURNOUT SYNDROMES "孔雀"-

一際目立つピーコックグリーンのジャケット。
孔雀、と名付けられたそのアルバムは、射抜くようにこちらを見つめている。

 

BURNOUT SYNDROMESの「らしさ」とはなんなのだろう。
彼らが自ら掲げる「らしさ」と、他人が彼らに投影する「らしさ」は果たしてどこまで重なるものなのだろうか。このアルバムはまさにその隔たりを象徴することとなったように思える。

 

メジャーデビュー前は当然のことながら、2016年にリリースされた1stアルバム「檸檬」から見ても、明らかに今作では成長が見られる。3人の強固な結束力から生み出される豊かな音色と物語の深みがあるが故に、そこにアレンジとして付加されていく音はどれほど挑戦的であっても美しくはまり、彼らの可能性をどんどんと広げてゆく。そういった音楽的なスキルや音の振れ幅に加え、歌詞そのものやその主人公の年齢、ひいてはBURNOUT SYNDROMESの3人が確かに年齢を重ねていることがこのアルバムからはうかがえる。それを是とするか非とするかは聴くものに委ねられるが、事実として、彼らは成長している。

檸檬」が青春色の強い、みずみずしいエネルギーと、その青春特有のほろ苦さを含んだものであったのに対し、《生命よ青春せよ 血を滴らせて/人生を慟哭せよ 美しい君よ》(M.01 ヨロコビノウタ)、《花一匁 花一匁/応 むざむざ斬られて堪るか》(M.02 花一匁)など、今作「孔雀」にあるのは生を謳い、今ある現実を受け入れながらもそれに堂々と立ち向かっていく、青春の残り香をまとわせながらもわずかに大人びた姿だ。
それは、今までの彼ら「らしさ」とは大きく異なる姿だ。きらめく青春を謳歌するクラスメイトを横目に見ながら、教室の隅で本を読んでいたその姿は見えない。青春を過去とした彼らは、クラスの中心で友人たちに囲まれるような少年少女が憧れるロックヒーローになった。その詞の中にかつてのような死の影はない。鬱屈した絶望もなく、そこには希望に満ちた未来があり、生きる喜びがある。まるでそんな過去はなかったかのように、ずっと彼らは大通りの真ん中を歩いて来たかのように、鮮やかな尾羽を広げた孔雀を世に放った。やはりなんとなく、「今までの彼ららしくない」姿として写った。

彼らの名がどんどんと世に出るにつれ、彼らは変わっていった。ファンの世代も若くなり、アイドルを見つめるように彼らを見つめた。何が原因というのでもないのだろう。あるいはバンドの頭脳であり心臓である熊谷和海の心の在り方がこれまでと変わったというだけのことなのかもしれない。ただ、彼らは変わった。それが良い変化なのか、はたまたその反対であるのか、誰にも断定できることではない。しかし私には、FLY HIGH!!ヒカリアレ、さらには花一匁の系譜を遡った先のあの青春の仄暗さは、人生にわずかばかり影を落とすような昏さは、誰でもない彼ら自身の手で過去のものとされてしまったように思われた。それはライヴで演奏しないなどといった目に見える形ではなく、「そんな時代もありましたよね」と記憶の中から引っ張り出してくるようなかたちの、「過去」。

 

しかし、バンドを動かすのが人間である限り、全ては流れ、変わりゆくものだ。熊谷はこの作品の根底にあるテーマを『「らしさ」を愛する』こととしたという。らしくあるというのは、あるがままであるということ。それを愛するということ。ならばこのアルバムは、今のBURNOUT SYNDROMESにしか生み出せない、彼ららしいものなのだろう。そうやって、彼らがあるがままで音を奏で、言葉を紡ぎ続ける限り、彼らは長く愛されるはずだ。ただ、彼らが、音楽コンテンツの一つとして、ちやほやされるのみで「消費」されてしまわないことを願う。

 

ひとつまみの焦燥

近年はThe Floorの躍進が特に目立つ札幌のミュージックシーンだが、昨年はバンドの解散が相次いだ。そんな中で、地道に歩みを進めてきたアルクリコールが先週、ミニアルバム「Re:versal」をリリースした。THEサラダ三昧からの改名後、初のリリースとなった今作は、バンドにとって初の全国流通盤である。

 


アルクリコール「ユアライト」Music Video

 

このアルクリコール、ただの爽やかなギターロックバンドではない。確かな歌唱力と、それを支え彩るサウンドはまさにギターロックとして正しい姿であると言えるが、どこか引っかかるのだ。耳触りがいいだけではなく、一瞬間心にざらりと引っかかる。それが一体なんであるか、その時点では今ひとつ「これだ!」と断言はできない。しかし見過ごすことのできない、痛みにも似た一瞬のざらつきが、彼らの描く世界に、鳴らす音の渦に、リスナーを引き込む。
沈み込むように、たゆたうように彼らの音に身を委ねると、だんだんと視界がはっきりしてくる。このバンドのソングライターであるワタナベヒロキ(Gt.)の描くメロディーラインとリリックは切なさとほろ苦さが丁寧に織り込まれ、早坂コウスケ(Vo./Gt.)の柔らかくも存在感のあるアルトが、さらにそれを丁寧に歌い上げる。穏やかな響きの中に鈍い騒めきを持つ五十嵐ハヤト(Ba.)のその音色は早坂の伸びやかな声によく合い、後藤フミト(Dr.)の真面目で純朴なドラミングは、絶妙なバランスで重なり合う3人の音と声を支え繋いでいく確かさを持つ。綺麗でまとまっているようで、やはりざらつく。危うさをほのかに感じる。

このざらつきは、おそらく、所々に散りばめられた焦燥感だ。

生まれ育った札幌の街でバンドを組んで6年半、メンバーチェンジもなくTHEサラダ三昧として、アルクリコールとして重ねてきた時間の中には、苦々しげに顔を歪め、うまくいかないことに苛立って唇を噛み、感情を持て余して地団駄を踏んだ日もあっただろう。決して楽しいばかりでなく、美しいばかりでない日々が、あるいは若さゆえの遣り場のない不安や苛立ちが歌詞に、声色に、奏でるラインに滲んでいく。そしてその欠片はメランコリックな音の中で、静電気のように一瞬間、スパークする。

《迫る不安の影にいつまでしがみついてるんだ/つまらない自尊心などは必要ないよ》(M.01 ユアライト)

《本当何やってんだ僕は/こんなはずじゃなかったよ/日々、刻むリズム飽きてしまっていた》(M.05 Days)

この焦燥は、やり切れなさや苛立ちは、決して彼らだけが特別持っているものではない。だからこそ、聴きながら彼らの音や言葉にざらつきを覚えるのだ。言葉で表現しきれない、曖昧な既視感が心をよぎるのだ。しかし彼らは、その持て余した感情をどこかへ投げつけるのではなく、あくまで音の中に閉じ込めようとしている。

《繰り返してる劣等感も/いい加減に捨て去ってさ/明日を迎えに行こう》(M.05 Days)

《単純明快な問題の/解決策は知っていた/最大限有言実行/足を止めるな》(M.06 クラリオ)

それは彼らが、ただその手の感情を覚えるのみでどうしようもできずにもがいている時期を過ぎたことを示す。無謀に遠い未来予想図を描くことで見て見ぬ振りをするのではなく、ただ足元にある日々の中で、それを抱えながら自分自身と折り合いをつけていく。人が10代20代に多かれ少なかれ持つもどかしさとその世代の華やかさを微妙なバランス感覚で混ぜ合わせたバンド、それがアルクリコールだ。

 

全国デビューを果たし、軽やかに地を蹴って走り出したばかりの彼らには未来が広がっている。希望も可能性も無限に散らばっている。甘く爽やかで心地よい歌の中に、ひとつまみの焦燥をスパイスとして織り込んで、彼らの音は響いていく。

 

鳴らすなら、3人の音を。 -17/12/26 ユビキタス at 2017 今を賑わすバンド超会議-

失くしたと思っていたピースが思いがけない場所から見つかって、穴の空いていたジグソーパズルがうっかり完成したような、そんな嬉しいサプライズだった。

大阪の3ピースロックバンド、ユビキタスにとって、2017年は始動以来の受難の年だった。飛躍を誓った矢先にヒロキ(Dr.)の無期限休養と脱退があり、年始に思い描いた彼らの展望は一度無に帰したともいえよう。それでもなお、ユビキタスは立ち止まりはしなかった。周囲の助けを借りながら、時には地を這うようにしてその歩みを進めた。だがどうしても、鳴らされる音に物足りなさが巣食うのは避けようがなかった。明確な、音楽的な意味においての、例えばサポートメンバーのドラミングがユビキタスと合っていなかったとか、そういった類の物足りなさではなく、もっと感覚的で、言ってしまえば感情的な部分での物足りなさ。ヒロキの不在は、ただのドラマーの不在ではなく、三角形の頂点をひとつ失うような、辺をひとつ消されてしまうような、彼らを知る人にしか分かり得ない大きな損失だった。
しかし、その日その場にいた多くの人にとって、そして誰より、1ファンとしての私にとって、その物足りなさが輪郭を持ったのはユビキタスの音がフロアを満たしたあの瞬間だった。

照明が落ち、ガヤガヤとした騒めきが引く。ヤスキ(Vo./Gt.)、ニケ(Ba.)に続いてステージに上がったヒロキの姿に、フロアから悲鳴が上がった。9ヶ月ぶりにヒロキが、ヤスキとニケの後ろに座った。それは見慣れていた光景だった。聴き慣れていた音だった。「あの世とこの世」で始まった彼らのステージは、ヒロキが叩くということもあってのことではあるが、最新作「変わりゆく世界」からの披露はなく、「透明人間」、「パラレルワード」など、3人だった頃の懐かしい曲ばかりで構成されていた。ヤスキのまっすぐに射抜くような歌声と、跳ねるようなギターリフ、ニケの鋭さと重さの合わさったベースライン、そして彼らを支えるだけの力強さのあるヒロキのドラミング。ヒロキがまだ本調子ではないとはいえ、ステージから投げかけられた音は、確かに、「ユビキタスの音」だった。
9ヶ月ぶりのステージとなったヒロキの表情は、かつてのようにコロコロと変わりながら、それでもその場にいるよろこびが滲んでいた。そしてヤスキもニケも、ここ最近では見なかったほどにいきいきと楽しそうに歌い、奏でた。3人の姿は長期間ブランクがあったとは思えないほど自然で、だからこそ、ヒロキが不在だった間、知らず識らずのうちに物足りなさを覚えていたことに気付かされた。声に出して探さずとも求めていたのは、他でもないこの3人の音であり姿だったのだと。

終演後、ヤスキは「今日までしんどかったー!」と安堵の笑顔とともに言った。折れそうになりながらも強くあろうとしたフロントマンにとって、2017年は長く、苦しい日々の連続だっただろう。「ほんま、エモいわあ。」と「今年ほんましんどかったわ。」を何度も交互に繰り返しながら、それでも彼は笑っていた。「今日が一番バンドやってる!って感じした!」と嬉しそうに、それでいてほっとしたように、笑っていた。

 

バンドにとって、辞めるという選択肢が正解であるときもあるだろう。美しい終焉も目にしてきた。だが一方で、続ける余地がある限り続けるというのも、人間らしくて泥臭くて、だからこその格好良さがある。どちらかと言えばユビキタスは、後者の方がよく似合う。まだヒロキはサポートとしての参加ではあるが、そこに鳴るのが紛うことなきユビキタスの音であるように、ユビキタスはどんな形であっても3人で音を重ねて放つだろう。いつだったかニケが言った通り、いつか来る最後の日の最後の瞬間まで。

感情は計算の外側で -17/12/08 PRIMAL CURVE 『#言葉は死角か視覚化可能か?』TOUR FINAL ONE MAN-

それはある一つの終わりであり、同時に、まだ見ぬ第2章の扉絵を飾るにふさわしい一夜だった。

 

2017年12月8日、大阪RUIDO。シングル「ReleaseMe?」のリリースツアー、「#言葉は死角か視覚化可能か?」のファイナルであり、PRIMAL CURVEの1年5ヶ月ぶりのワンマン公演。そして、Dr. 畑のPRIMAL CURVEとしてのラストライヴでもあった。彼の脱退後のバンドの活動に関しては未だ確定していない。続くとも続かないとも明言していないが故に、昨晩のワンマンは言わば一つの終焉だったわけである。
それを意識させないように、あるいは意識しないように、あくまでもいつも通りでライヴは進んでいったのだが、彼らの言葉の端々や、一つ一つの仕草、表情、セットリストの構成にはこれまでの、前身バンドも含めた7年間の思いが織り込まれているように思われた。2時間という時間の中で、一瞬の空気に、過去に対する餞別のような光が走るたびに、いつにも増して綺麗に重ね合わされた4人の音は深みを増し、鮮やかに色濃くフロアを満たした。

「アンテナ」や「ベクトル」、「タンジェント」といった熱量の高いロックチューンを次々と投下し、彼らが描いてきたロックを結晶化させたようなステージを見せたかと思えば、「Lyla」や「U&I」のようなバラード〜ミドルバラードを並べて、彼らの世界へぐっと引き込み、終盤では「24/7」、「Ray」、「C.O.C.」で最後まで燃え尽きるような、燃やし尽くすような演奏を披露した。この計算されたような構成はあざとくもあるが、同時に全体の流れや、歌われる言葉と込められた想いやメッセージを大事にする彼ららしいとも言えるだろう。最後の曲に「ハローグッバイ」を据えたことで、見事に、決定的に、この日のライヴは完成された。ただし、アンコールは別として。

この日、アンコールで彼らが演奏したのは「泡になって消えても」。最後まで残しておいたのではない。本編ですでに披露しているのだから。アンコールでさえ、フロアからのあの切実な手拍子がなければ、あるいは途中で諦めてしまって鳴り止んでいれば、彼らは再びステージには上がらなかっただろう。
3年近く前のある時、Vo.笠井は「30分なら30分、どんなに記念の日でも持ち時間で出しきるのがバンドでしょ?」とこぼした。2回目の「泡になって消えても」は彼のその信念がまさしく体現されたアンコールの1曲だった。歌詞を直接書いていないからこそ、それを誰よりも大事にしている彼の、「もう一度この曲をここで歌いたい」という意思と共に4人で最後に鳴らされた1曲は、完成された本編を超えてエモーショナルに響いていた。

 

PRIMAL CURVEはどこか冷静沈着で、落ち着いた印象を与えるバンドだ。しかし4人それぞれの持つ顔は達観しているわけでもなければ、何かに対して冷めているわけでもない。4者4様の自由で躍動的で鮮烈な音と歌がそれを証明している。この日も、確かに彼らは4人で作り上げる最後の一夜を美しくロジカルに組み立てたが、それは決してすべての終焉を思わせるような、綺麗にまとめられたものではなかった。これまでの自分たちに対する一つのけじめ。異なる道を歩みだすメンバーに対する餞別。区切りとなるライヴには違いなかったが、そこには未来があった。本を閉じるようなライヴではなく、ページをめくるような、あるいは次の章の伏線にもなるような、そういう、途中の終わり。この先もきっとまたこのバンドは進み続けてくれると確信できるような、晴れやかなライヴだった。
誠実かつひたむきに、勝てなくても決して負けないように、時間と音を重ね紡いでいく彼らは、少し立ち止まって、きっとまたすぐに戻ってくるだろう。形も何もまだ決まっていないとは言うが、少なくともそこに湛える光は、いまのPRIMAL CURVEが持つものときっと変わらないはずだ。

 

変わらないものを探して -ユビキタス "変わりゆく世界"-

大阪のギターロックバンド、ユビキタスが10月21日、結成5周年を迎えた。当日は福岡でライヴを行なっていた彼らだが、この日から会場限定のシングルが発売開始となった。タイトルは「変わりゆく世界」。前作から9ヶ月しか経っていないが、今までのどんな期間よりも濃く、どんな期間よりも苦しかったであろうその9ヶ月が、今作にはしっかりと反映されている。

 

今作のリリースを前にしたある時、ヤスキ(Vo./Gt.)は「歌いたいことが定まったような気がする」と晴れやかに言った。今自身が歌いたい歌を素直に歌うこと、誰かのために書いたようなものではなく、ただ自分の心から溢れる感情や言葉を歌に乗せること。そんな原点回帰のような、雨上がりの澄んだ空気のような、シンプルで爽やかな衝動の上に成り立った今作は、誰に媚びるでもなく、誰に捧げられるでもなく、ただ彼の心のうちが吐露されたような1枚だ。

《どれ位の言葉を並べて/どれ位の想い詰め込んで/君はそんなことも知らないでしょ?/それでもいいの好きになったなら》(M01. ベル)

《大事にするとか/大事にしてほしいとか/聞きたくないや》(M02. 変わりゆく世界)

歌い出しはどちらも、ちくりと胸を刺す。ストレートに耳に飛び込んでくる言葉と、余計なことを考える前にすとんと腑に落ちてしまう感覚。これまでもその感覚的な言葉遣いや言葉選びのセンスは、ヤスキの得意とするところであり持ち味だったが、今作のこの2曲に関してはよりその精度が上がっている。
この2曲の歌い出しのフレーズは、ともすれば周囲を敵に回してもおかしくない。聞こえる歌詞を思い思いに解釈し好きだとか嫌いだとか好き勝手言うファンや、あなたたちのために歌いますなどとといけしゃあしゃあと吐くバンドマンを、辛辣に斬って捨てるような言葉だ。しかし、そこに負の声色はない。苛立ちや吐き捨てるような冷たさはない。だから、すっと胸に落ちてきてしまうのだ。なんの躊躇もなく納得するか、反発心を抱くか、そしてそれを是とするか非とするかは聴く者に委ねられる。しかし言えるのは、ヤスキはそれを誰かに対して歌っているのではなく、ただ自分の中に落とし込むようにして歌っているということだ。「あなたがどう思おうと、君がどう歌おうと、自分は自分の思うように勝手にやっていくから。だから勝手に好いてくれたらいい。」そんな風に聞こえる。それは一見ぶっきらぼうなようでもあるが、好きなようにしたらええやんと笑う、等身大の彼が見える。

1、2曲目がそんな風に、2人となったユビキタスの再スタートを飾る、新鮮でじわりと心が動くような衝動を秘めた楽曲であるのに対し、後半の2曲はこれまでの彼らの魅力をもう一度見つめ直したような作品になっている。色彩豊かな秋にぴったりの「彩りのワルツ」は胸躍るようなメロディーにヤスキの言葉選びが光る。《終わらないように彩りのワルツ/君の綺麗な瞬間を/僕に見せてよ》というフレーズは、どこか1stミニアルバムの頃のような華やかさとポップネスをのぞかせながら、これまでよりもぐっと大人っぽい落ち着きも併せ持ち、3年の確かな歩みを感じさせる。そしてラストのささやかな幸せを淡々と歌う「美しい日々」は、軽やかに韻を踏んだ歌詞と、微笑みが見えるほど優しい歌声が心を捉え、自身のというよりは、誰かの幸せを微笑ましく眺めているようなあたたかさが胸を満たす1曲だ。 

たった4曲ながら聴きごたえのある1枚に仕上がっているのは、4曲のどこを取っても今の彼らを映し出す鏡になっているからだろう。4月にメンバーの脱退があり、必然的に失速を余儀なくされたユビキタスだったが、それでも決して歩みは止めなかった。サポートドラマーを立て、決まっていたライヴは1本もキャンセルすることなく、2人のユビキタスとしてなんとか軌道修正を図った。止まってやるものかという意地に近い気迫すらも見せて、ギリギリのラインをどうにかこうにか這うように進んでいるというような数ヶ月だった。

 

やっと手が届いた5周年の日、このシングルを持って彼らはようやくちゃんとした1歩を踏み出した。彼らにとって、今年は世界がめまぐるしく表情を変えたように見えた1年だっただろう。1歩を踏み出せたのはきっと、今まで変わらないと思い込んでいた土台がぐらりと揺らいでしまったその不安定さにようやく馴染んできたから。とうに過ぎた季節をやっと見送って、刻一刻と変わりゆく世界と向き合って、その中で変わらない何かを探し出して抱きしめて、彼らは今日も歌い奏でる。そうして紡いでいく言葉が、放たれていく音が、彼らのゆく世界を彩り、支えていくのだ。

今という一瞬を生きること -17/10/21 ココロオークション 3rd mini Album Release TOUR 2017 『夏の終わりを探しに行こう』-

10月21日、大雨。ココロオークションのホーム、大阪でのワンマンライヴが梅田TRADで開催された。8月にリリースされた3rdミニアルバム、「夏の夜の夢」を提げたツアー、「夏の終わりを探しに行こう」のセミファイナルである。秋の雨に見舞われた当日だったが、それもまた、ココロオークションらしいと言えば、らしいだろう。自他共に認める雨男の粟子(Vo./Gt.)も、ライヴの冒頭で「2017年、10月、21日。…雨」といつも通りに日付と天気を発した時、少しホッとしたように、くすりと笑っていた。憂いと寂しさを含んだような、少し重さのある雨音は、ココロオークションの音にとてもよく合う。

 

そんな天気に合わせるかのように、ライヴは「雨音」で幕を開けた。夏が過ぎて久しい10月下旬、冬の足音すら聞こえてきそうなほど寒い1日ながら、彼らの音は一瞬にして時間を巻き戻し、夏の空気の中へフロアを連れて行く。「雨音」をはじめとした、「群青」、「Orange」、「線香花火」といった、しっとりしたバラードを軸にしながら、「シャバ・アーサナ」、「スパイダー」のような、鋭く切り込んでくる、エッジの効いたロックチューンや、「ヘッドフォントリガー」、「星座線」、「フライサイト」というココロオークションを代表するアップテンポなギターロックを混ぜることで、ココロオークションの持つ音色の豊かさ、音楽性の幅広さを見せつける。ワンマンという舞台だからこそ、その幅も丁寧に描き切ることができる。また、オーディエンスは、ココロオークションのためだけのステージを目にし、音に触れることで、その彩り豊かな楽曲の中に彼らが音楽を通して伝えんとする想いが一貫して込められていることにも気づくのだ。

それは、「終わりがあるからこそ今を大切にできる」ということ。「今のこの瞬間を生きる」ということ。
彼らは別れや終わりに対してひどく過敏でありながら、同時にとても現実的でもある。MCの中で、粟子は「僕らはいつかいなくなるし、今日のこともいつかは忘れてしまいます。でも今日のこの時間は、僕らが重ね合わせたこの時間は嘘じゃない。事実として残り続けます。」と語った。フロントマンのMCとしてはいささか残酷かもしれない。ずっと続けていくからとか、一生忘れませんとか、その時は確かにそう感じていて、自分の中にあるその感情に確信を抱いてはいるのだが、いつしか嘘になる可能性を孕んでいる。「ずっと」も「一生」も、確約されるものではない。その上で、それでもそこにその時間があったという事実だけは、たとえ誰も覚えている人がいなくなったとしても、確かに残るのだという、ある種の救い。粟子はファンに対してその救いを示しながら、終わりが来ることを知っているからこそ、今をより大事にできるんだと、魔法を唱えるように繰り返す。だから二度とない今日の、今という一瞬を抱きしめていよう、と。彼はきっと、終わりの切なさを、別れの寂しさを人一倍強く感じてしまうのだ。自分にもまじないをかけるかのように、「今を抱きしめて」と繰り返す彼が一番、いつかいなくなってしまうことを、いつか忘れてしまうことを寂しく思っているのかもしれない。

「今」を大事にしたいと願うのは、決して粟子だけではない。このココロオークションというバンドそのものの歩み自体にも関係するだろう。大野(Ba.)も語った通り、ココロオークションの歩みは、昨今のメジャー第一線に並ぶバンドの顔ぶれとその歩みを考えるに、とびきり早く、順調だったとは言えない。大野は「こっちは自転車でちょっとずつ走ってんのに、横をスポーツカーでびゅーん!って走り去っていくみたいなのもいっぱいあった」と表現した。しかし彼らは決してそれを悲観したり卑下したりしているわけではない。自分たちはスポーツカーに乗るよりも、自転車を漕いでいる方があっていると思ってさえいそうだ。ゆっくりと自転車をこぐスピードに合わせて、自分たちと一緒に進んでくれるファンが何よりもの誇りだと、やわらかく、少し照れ臭そうに、大野は微笑んだ。スポーツカーで走り去ったのではわからないであろう雨の冷たさを、道端の花の可憐さを、移ろう季節の匂いを、流れる雲の速さを、ココロオークションは肌身で知っている。それは、これから先爆発的に売れようが売れまいが、彼らを彼らたらしめる強さとなるだろう。今という瞬間を生きること、その日が最後だというつもりでライヴをすること。切迫感すら感じられるその信念は、より彼らの音を研ぎ澄ませていく。

 

アンコールで、年明けからすぐに、好評のアコースティック企画「CCR UNPLUGGED」でツアーに出ることを発表した。発売当日に大阪公演は完売、ファンの期待度の高さが伺える。粟子が言う通り、いつかいなくなってしまうのだとしても、まだまだココロオークションは続いていくのだ。今日で最後だという思いで抱きしめた1日1日を重ねながら。