海の星座

光を射す言葉を。

感情は計算の外側で -17/12/08 PRIMAL CURVE 『#言葉は死角か視覚化可能か?』TOUR FINAL ONE MAN-

それはある一つの終わりであり、同時に、まだ見ぬ第2章の扉絵を飾るにふさわしい一夜だった。

 

2017年12月8日、大阪RUIDO。シングル「ReleaseMe?」のリリースツアー、「#言葉は死角か視覚化可能か?」のファイナルであり、PRIMAL CURVEの1年5ヶ月ぶりのワンマン公演。そして、Dr. 畑のPRIMAL CURVEとしてのラストライヴでもあった。彼の脱退後のバンドの活動に関しては未だ確定していない。続くとも続かないとも明言していないが故に、昨晩のワンマンは言わば一つの終焉だったわけである。
それを意識させないように、あるいは意識しないように、あくまでもいつも通りでライヴは進んでいったのだが、彼らの言葉の端々や、一つ一つの仕草、表情、セットリストの構成にはこれまでの、前身バンドも含めた7年間の思いが織り込まれているように思われた。2時間という時間の中で、一瞬の空気に、過去に対する餞別のような光が走るたびに、いつにも増して綺麗に重ね合わされた4人の音は深みを増し、鮮やかに色濃くフロアを満たした。

「アンテナ」や「ベクトル」、「タンジェント」といった熱量の高いロックチューンを次々と投下し、彼らが描いてきたロックを結晶化させたようなステージを見せたかと思えば、「Lyla」や「U&I」のようなバラード〜ミドルバラードを並べて、彼らの世界へぐっと引き込み、終盤では「24/7」、「Ray」、「C.O.C.」で最後まで燃え尽きるような、燃やし尽くすような演奏を披露した。この計算されたような構成はあざとくもあるが、同時に全体の流れや、歌われる言葉と込められた想いやメッセージを大事にする彼ららしいとも言えるだろう。最後の曲に「ハローグッバイ」を据えたことで、見事に、決定的に、この日のライヴは完成された。ただし、アンコールは別として。

この日、アンコールで彼らが演奏したのは「泡になって消えても」。最後まで残しておいたのではない。本編ですでに披露しているのだから。アンコールでさえ、フロアからのあの切実な手拍子がなければ、あるいは途中で諦めてしまって鳴り止んでいれば、彼らは再びステージには上がらなかっただろう。
3年近く前のある時、Vo.笠井は「30分なら30分、どんなに記念の日でも持ち時間で出しきるのがバンドでしょ?」とこぼした。2回目の「泡になって消えても」は彼のその信念がまさしく体現されたアンコールの1曲だった。歌詞を直接書いていないからこそ、それを誰よりも大事にしている彼の、「もう一度この曲をここで歌いたい」という意思と共に4人で最後に鳴らされた1曲は、完成された本編を超えてエモーショナルに響いていた。

 

PRIMAL CURVEはどこか冷静沈着で、落ち着いた印象を与えるバンドだ。しかし4人それぞれの持つ顔は達観しているわけでもなければ、何かに対して冷めているわけでもない。4者4様の自由で躍動的で鮮烈な音と歌がそれを証明している。この日も、確かに彼らは4人で作り上げる最後の一夜を美しくロジカルに組み立てたが、それは決してすべての終焉を思わせるような、綺麗にまとめられたものではなかった。これまでの自分たちに対する一つのけじめ。異なる道を歩みだすメンバーに対する餞別。区切りとなるライヴには違いなかったが、そこには未来があった。本を閉じるようなライヴではなく、ページをめくるような、あるいは次の章の伏線にもなるような、そういう、途中の終わり。この先もきっとまたこのバンドは進み続けてくれると確信できるような、晴れやかなライヴだった。
誠実かつひたむきに、勝てなくても決して負けないように、時間と音を重ね紡いでいく彼らは、少し立ち止まって、きっとまたすぐに戻ってくるだろう。形も何もまだ決まっていないとは言うが、少なくともそこに湛える光は、いまのPRIMAL CURVEが持つものときっと変わらないはずだ。

 

変わらないものを探して -ユビキタス "変わりゆく世界"-

大阪のギターロックバンド、ユビキタスが10月21日、結成5周年を迎えた。当日は福岡でライヴを行なっていた彼らだが、この日から会場限定のシングルが発売開始となった。タイトルは「変わりゆく世界」。前作から9ヶ月しか経っていないが、今までのどんな期間よりも濃く、どんな期間よりも苦しかったであろうその9ヶ月が、今作にはしっかりと反映されている。

 

今作のリリースを前にしたある時、ヤスキ(Vo./Gt.)は「歌いたいことが定まったような気がする」と晴れやかに言った。今自身が歌いたい歌を素直に歌うこと、誰かのために書いたようなものではなく、ただ自分の心から溢れる感情や言葉を歌に乗せること。そんな原点回帰のような、雨上がりの澄んだ空気のような、シンプルで爽やかな衝動の上に成り立った今作は、誰に媚びるでもなく、誰に捧げられるでもなく、ただ彼の心のうちが吐露されたような1枚だ。

《どれ位の言葉を並べて/どれ位の想い詰め込んで/君はそんなことも知らないでしょ?/それでもいいの好きになったなら》(M01. ベル)

《大事にするとか/大事にしてほしいとか/聞きたくないや》(M02. 変わりゆく世界)

歌い出しはどちらも、ちくりと胸を刺す。ストレートに耳に飛び込んでくる言葉と、余計なことを考える前にすとんと腑に落ちてしまう感覚。これまでもその感覚的な言葉遣いや言葉選びのセンスは、ヤスキの得意とするところであり持ち味だったが、今作のこの2曲に関してはよりその精度が上がっている。
この2曲の歌い出しのフレーズは、ともすれば周囲を敵に回してもおかしくない。聞こえる歌詞を思い思いに解釈し好きだとか嫌いだとか好き勝手言うファンや、あなたたちのために歌いますなどとといけしゃあしゃあと吐くバンドマンを、辛辣に斬って捨てるような言葉だ。しかし、そこに負の声色はない。苛立ちや吐き捨てるような冷たさはない。だから、すっと胸に落ちてきてしまうのだ。なんの躊躇もなく納得するか、反発心を抱くか、そしてそれを是とするか非とするかは聴く者に委ねられる。しかし言えるのは、ヤスキはそれを誰かに対して歌っているのではなく、ただ自分の中に落とし込むようにして歌っているということだ。「あなたがどう思おうと、君がどう歌おうと、自分は自分の思うように勝手にやっていくから。だから勝手に好いてくれたらいい。」そんな風に聞こえる。それは一見ぶっきらぼうなようでもあるが、好きなようにしたらええやんと笑う、等身大の彼が見える。

1、2曲目がそんな風に、2人となったユビキタスの再スタートを飾る、新鮮でじわりと心が動くような衝動を秘めた楽曲であるのに対し、後半の2曲はこれまでの彼らの魅力をもう一度見つめ直したような作品になっている。色彩豊かな秋にぴったりの「彩りのワルツ」は胸躍るようなメロディーにヤスキの言葉選びが光る。《終わらないように彩りのワルツ/君の綺麗な瞬間を/僕に見せてよ》というフレーズは、どこか1stミニアルバムの頃のような華やかさとポップネスをのぞかせながら、これまでよりもぐっと大人っぽい落ち着きも併せ持ち、3年の確かな歩みを感じさせる。そしてラストのささやかな幸せを淡々と歌う「美しい日々」は、軽やかに韻を踏んだ歌詞と、微笑みが見えるほど優しい歌声が心を捉え、自身のというよりは、誰かの幸せを微笑ましく眺めているようなあたたかさが胸を満たす1曲だ。 

たった4曲ながら聴きごたえのある1枚に仕上がっているのは、4曲のどこを取っても今の彼らを映し出す鏡になっているからだろう。4月にメンバーの脱退があり、必然的に失速を余儀なくされたユビキタスだったが、それでも決して歩みは止めなかった。サポートドラマーを立て、決まっていたライヴは1本もキャンセルすることなく、2人のユビキタスとしてなんとか軌道修正を図った。止まってやるものかという意地に近い気迫すらも見せて、ギリギリのラインをどうにかこうにか這うように進んでいるというような数ヶ月だった。

 

やっと手が届いた5周年の日、このシングルを持って彼らはようやくちゃんとした1歩を踏み出した。彼らにとって、今年は世界がめまぐるしく表情を変えたように見えた1年だっただろう。1歩を踏み出せたのはきっと、今まで変わらないと思い込んでいた土台がぐらりと揺らいでしまったその不安定さにようやく馴染んできたから。とうに過ぎた季節をやっと見送って、刻一刻と変わりゆく世界と向き合って、その中で変わらない何かを探し出して抱きしめて、彼らは今日も歌い奏でる。そうして紡いでいく言葉が、放たれていく音が、彼らのゆく世界を彩り、支えていくのだ。

今という一瞬を生きること -17/10/21 ココロオークション 3rd mini Album Release TOUR 2017 『夏の終わりを探しに行こう』-

10月21日、大雨。ココロオークションのホーム、大阪でのワンマンライヴが梅田TRADで開催された。8月にリリースされた3rdミニアルバム、「夏の夜の夢」を提げたツアー、「夏の終わりを探しに行こう」のセミファイナルである。秋の雨に見舞われた当日だったが、それもまた、ココロオークションらしいと言えば、らしいだろう。自他共に認める雨男の粟子(Vo./Gt.)も、ライヴの冒頭で「2017年、10月、21日。…雨」といつも通りに日付と天気を発した時、少しホッとしたように、くすりと笑っていた。憂いと寂しさを含んだような、少し重さのある雨音は、ココロオークションの音にとてもよく合う。

 

そんな天気に合わせるかのように、ライヴは「雨音」で幕を開けた。夏が過ぎて久しい10月下旬、冬の足音すら聞こえてきそうなほど寒い1日ながら、彼らの音は一瞬にして時間を巻き戻し、夏の空気の中へフロアを連れて行く。「雨音」をはじめとした、「群青」、「Orange」、「線香花火」といった、しっとりしたバラードを軸にしながら、「シャバ・アーサナ」、「スパイダー」のような、鋭く切り込んでくる、エッジの効いたロックチューンや、「ヘッドフォントリガー」、「星座線」、「フライサイト」というココロオークションを代表するアップテンポなギターロックを混ぜることで、ココロオークションの持つ音色の豊かさ、音楽性の幅広さを見せつける。ワンマンという舞台だからこそ、その幅も丁寧に描き切ることができる。また、オーディエンスは、ココロオークションのためだけのステージを目にし、音に触れることで、その彩り豊かな楽曲の中に彼らが音楽を通して伝えんとする想いが一貫して込められていることにも気づくのだ。

それは、「終わりがあるからこそ今を大切にできる」ということ。「今のこの瞬間を生きる」ということ。
彼らは別れや終わりに対してひどく過敏でありながら、同時にとても現実的でもある。MCの中で、粟子は「僕らはいつかいなくなるし、今日のこともいつかは忘れてしまいます。でも今日のこの時間は、僕らが重ね合わせたこの時間は嘘じゃない。事実として残り続けます。」と語った。フロントマンのMCとしてはいささか残酷かもしれない。ずっと続けていくからとか、一生忘れませんとか、その時は確かにそう感じていて、自分の中にあるその感情に確信を抱いてはいるのだが、いつしか嘘になる可能性を孕んでいる。「ずっと」も「一生」も、確約されるものではない。その上で、それでもそこにその時間があったという事実だけは、たとえ誰も覚えている人がいなくなったとしても、確かに残るのだという、ある種の救い。粟子はファンに対してその救いを示しながら、終わりが来ることを知っているからこそ、今をより大事にできるんだと、魔法を唱えるように繰り返す。だから二度とない今日の、今という一瞬を抱きしめていよう、と。彼はきっと、終わりの切なさを、別れの寂しさを人一倍強く感じてしまうのだ。自分にもまじないをかけるかのように、「今を抱きしめて」と繰り返す彼が一番、いつかいなくなってしまうことを、いつか忘れてしまうことを寂しく思っているのかもしれない。

「今」を大事にしたいと願うのは、決して粟子だけではない。このココロオークションというバンドそのものの歩み自体にも関係するだろう。大野(Ba.)も語った通り、ココロオークションの歩みは、昨今のメジャー第一線に並ぶバンドの顔ぶれとその歩みを考えるに、とびきり早く、順調だったとは言えない。大野は「こっちは自転車でちょっとずつ走ってんのに、横をスポーツカーでびゅーん!って走り去っていくみたいなのもいっぱいあった」と表現した。しかし彼らは決してそれを悲観したり卑下したりしているわけではない。自分たちはスポーツカーに乗るよりも、自転車を漕いでいる方があっていると思ってさえいそうだ。ゆっくりと自転車をこぐスピードに合わせて、自分たちと一緒に進んでくれるファンが何よりもの誇りだと、やわらかく、少し照れ臭そうに、大野は微笑んだ。スポーツカーで走り去ったのではわからないであろう雨の冷たさを、道端の花の可憐さを、移ろう季節の匂いを、流れる雲の速さを、ココロオークションは肌身で知っている。それは、これから先爆発的に売れようが売れまいが、彼らを彼らたらしめる強さとなるだろう。今という瞬間を生きること、その日が最後だというつもりでライヴをすること。切迫感すら感じられるその信念は、より彼らの音を研ぎ澄ませていく。

 

アンコールで、年明けからすぐに、好評のアコースティック企画「CCR UNPLUGGED」でツアーに出ることを発表した。発売当日に大阪公演は完売、ファンの期待度の高さが伺える。粟子が言う通り、いつかいなくなってしまうのだとしても、まだまだココロオークションは続いていくのだ。今日で最後だという思いで抱きしめた1日1日を重ねながら。

醒めない夢、解けない魔法 -17/10/15 BIGMAMA 『BIGMAMA in BUDOKAN』-

照明の消えた会場に流れ出した、交響曲第九番のあのフレーズ。同時にオーディエンスの歓喜の声が大きなうねりを起こして、日本武道館を埋めた。

 

2017年、10月15日。その大きなステージに立ったのは、BIGMAMAだった。
彼らは10年という月日を、実直に、でも時々斜に構えもしながら重ねてきた。その一番上に、この日、大きな玉ねぎを飾り付けた。とても、満足げに。

その場所に立つ喜びを、5人で奏でることの歓びを謳うかのように「No.9」で始まったこの日のライヴは、息つく間もなく、彼らの10年間の足跡をたどりながら、思い出をちりばめながら進んでいった。「the cookie crumbles」、「DIV/0!」、「かくれんぼ」、さらには「Paper-craft」といった過去の名曲から、「SPECIALS」、 「CRYSTAL CLEAR」、「Sweet Dreams」のような近年の、華やかで愛にあふれた楽曲まで、アンコールまで含めて実に31曲が披露された。彼らが何百回と立ってきたいつものライヴハウスよりも、大勢のオーディエンスが詰めかけるロックフェスのステージよりも、この日のステージは広かった。しかし、この日の彼らのためだけに用意されたその広いステージと、そこから両サイドに、そしてアリーナ席のごく近くに伸ばされた花道とを、金井(Vo./Gt)、柿沼(Gt./Vo.)、東出(Vn./Cho.)は縦横無尽に駆け回り、広い会場だからといって決して持て余すことなく、ファンに対していつも以上に彼らを近くに感じさせるようなステージングを見せた。

BIGMAMAの真骨頂ともいうべきステージに仕上がっていたのは、ライヴを折り返したあたり、「awasekagami」からのアティテュードと、続く「君想う、故に我在り」。「awasekagami」の冒頭、ステージ後ろのスクリーンには、寂寥感と鬱々しさが滲む、同曲のMVにも似た映像が流れる。ステージから伸びた白いレーザーは、霧のように面となって会場を満たし、そこに淡いピンクのほのかな光が混じる。その光に目を、心の奥底へと沈み込むようなメロディーと絡むようなストリングスの音色に耳を奪われたまま、楽曲は「君想う、故に我在り」へと流れ込む。映像と光によって作り上げられた世界は、楽曲がもともと持つ美しさと切なさにとどまらず、陰鬱さと狂気性すらも再現してみせていた。雄大でありながらも繊細な音が重ね合わされたこの楽曲で、視覚と聴覚をジャックすることによってBIGMAMAがオーディエンスに与えた感銘は計り知れない。オールスタンディング、かつ決して長くはない持ち時間であるライヴハウスやフェスのステージではどうしても表現しきれない、BIGMAMAの持つ、胸に迫る美しさと狂おしさとを、たっぷりと時間を尽くして描き切った、圧巻の一幕だった。

 

ステージに立つ5人の表情は晴れやかだった。日本武道館という、全ての音楽人にとっての憧れであるはずのそのステージを、無闇に意識せず、変に気取らず、自分たちの場所としてあくまで自然体で捉えているその姿は、そのまま音になり歌になり、普段と何ら変わりのない、しかし、だからこそ特別な一夜をつくりあげた。
本編ではほとんどMCを挟まず、怒涛のように曲を奏で続けていたが、アンコールのステージで金井は20分近くかけてMCという名の独白をし、心のこもったメンバー紹介を一人分ずつじっくり時間をかけて行った。ここまでの10年を思い、作り上げてきたBIGMAMAという居場所を思い、そして今立っている場所を思い、感極まる彼にメンバーは優しく微笑む。「あれ?俺ら今日解散するの?」などと茶化しながら、ちゃんと金井が続きを話せるように、待っている。友達以上、ときどき家族以上。はちみつのように濃密な幸福感で満たされた2時間の中では、20分というライヴ中のMCとしては規格外の長さの時間さえ、そんな関係性の見える、ゆるやかで幸福なものだった。

独白の中で、彼はことあるごとに口にする信念について再び語った。彼が音楽活動に専念すると両親に告げた時の、父親の言葉だという。「巻き込んだ人を、絶対に不幸にするな。」一生の中で自分が幸せにできる人数は限られているし、当然ファン全員を自らの手で幸せにすることなんてできやしない。それでも、BIGMAMAの音楽でどうにか不幸を遠ざけることなら、不幸にさせないようにならできるんじゃないか。「巻き込んだ人を絶対に不幸にしない音楽を。」彼が掲げるその信念は、ささやかでありながら壮大な願いだ。
最後になって、さらりと、ほとんど曲を演奏しながら、照れくさそうにはにかみながら、来年からユニバーサルミュージックに籍を置くことを発表した。これまでの10年と同じように、しかし今までよりも広い世界に向かって、金井政人率いるBIGMAMAは音を奏で続ける。そうして、醒めない夢を音で見せながら、解けない魔法を歌でかけながら、日常に音もなく忍び寄る大小の不幸を遠ざけていくに違いない。その時もやっぱり彼らは「幸せにするなんて大それたことはできないし、言えないけど。」と言うだろう。しかしその、不幸が彼らの手によって遠ざけられることをこそ、彼らを信じ愛する人たちは「幸せ」と呼ぶのだ。

 

ロジカルな言葉を、エモーショナルに鳴らして。 -PRIMAL CURVE "ReleaseMe?"-

理系のバンドは意外といないんじゃないだろうか。
いや、もちろん理系出身のバンドマンはいる。アーティストはいる。ここで言いたいのは、「理系ロックバンド」を看板に掲げるバンドはそうそういないんじゃないかという話だ。

そもそも、これは偏見であるとも言えるが、音楽と理系というのはあまり結びつけて語られることはない。どちらかというと、計算されたものというよりは感覚的なもの、論理的なものというよりは詩的なもの、そんな風に捉えられることがしばしばではないだろうか。文学ロックと称されるものの対称になる存在が語られないように。しかし、いい音楽というのは、案外計算の上に成り立っているものでもある。

 

大阪にPRIMAL CURVEというバンドがいる。彼らこそが「理系ロックバンド」を掲げるバンドだ。前身バンドを経て、2013年に活動を開始。楽曲はもちろん、グッズのデザインに至るまで、理系的な単語やモチーフが散りばめられ、確固たるブランディングは彼らのイメージを決定づけていた。

彼らの音楽は実際に、とても「計算」された作りになっている。叙情的というよりは理知的な、暖色というよりは寒色のような、ストイックでエッジの効いた音楽だ。PRIMAL CURVEとして活動し始めた当初の音源を聴くに、曲はVo./Gt.笠井の声が一番よく通るところに、一番気持ちよく響くところに音やメロディーが合わせられていて、その、ある種完成された音は、まさしく正しい解を求めにいく「理系」のもののようだった。しかし一方で、歌詞に関して言えば、音に対する言葉のはめ方や、言葉の選び方、世界の描き方はどこか頼りなく、リスナーに空想の余地を与えるというよりは、宙に放り出されたような、不安定な言葉が並んでいた。

それが変わり始めたのは昨年リリースとなったミニアルバム、「OALL」だった。
この作品の中で綴られている言葉はパズルのように一つずつ音に当てはめられたものではなく、「届けられるものとしての言葉」へとその立ち位置を変えている。

《一人だけじゃ、きっとあなただけじゃ、/in this world 変わりはしないけど/誰かとなら、きっとあなたとなら、/in this world 踏み出す力を/並べた不満も飛び越えてく 届かない高さで》(OALL: M.01「ベクトル」)

そこにあったのはふわっとした「リスナー」という顔の見えない存在を対象にするものではなく、届けたい相手の顔をしっかりと思い浮かべているような、地に足のついた言葉であり、音楽だった。しかしただ感傷的なのではなく、ただ詩的なのではなく、彼ららしい理系的なワードを置きながら、心に引っかかるフレーズが心地よく響く音楽の形は、これがPRIMAL CURVEだと言い切るだけの力強さを持つ。そんな核を得た彼らの音は加速度的に魅力を増し、今年7月にリリースされた「ReleaseMe?」にもあふれんばかりに落とし込まれている。

彼らの持ち前の計算された音の気持ち良さ、4つの音が重なり合う、音としてのカロリーの高さ、さらには笠井の歌声を支えるコーラスの厚さと綺麗さはそのままに、歌詞がぐっと人を引き付けるように、聴く人の心にちゃんと響かせるように変わった。過去の作品が自分の中にある感情を、自分の中にある語彙を目一杯に使って表現していたのに対し、今作ではより感情に肉薄する言葉を選ぶ余裕と、自分一人で完結してしまわずに、目の前にいる「あなた」に聴かせる余力を持ち合わせている。目に見えたものをただ説明するのではなく、そこに想像の余地を残すような言葉の使い方は、強いて言えば文系的で、作詞者であるGt.平林がもつ力、例えばイメージを言葉にするプロセスだとか、ボキャブラリーの幅であるとか、そういったカテゴリの「文系っぽさ」が以前より強くなったように思う。力を増した言葉の数々に引っ張られるように、笠井の歌も変化している。時に脆そうですらあった優しさのある歌声がしっかりとした芯を持つようになり、淡々と歌い紡いでいた姿が表情豊かになり華やかさを備えたことで、聴く人の心に届いて響くしなやかさと強さを得た。これまでも優れていた4人の音の重なりやコーラスワークはさらに厚みを増し、力をつけた言葉をもてあますことなく全力で歌いあげる笠井の歌声を支え、彩る。音にも、言葉にも、頼りなげな物足りなさはもうない。

 

今作、「ReleaseMe?」を提げて、彼らは今ツアーを回っている。ツアータイトルは「#言葉は死角か 視覚化可能か?」。「理系ロックバンド」を掲げてきた彼らが、今掴もうとしているのは「言葉」だ。

《本心見せない上辺のセリフも隠し通せば美しいままで/麗しき愛を謳ったフレーズも響かなければゴミと化すのかい?》(ReleaseMe?: M.03「スペルズ」)

言葉は目に見えるものではなく、口に出したからといって100%で伝わるものでもなく、答えもなければ方程式もない。普段何の気なしに使っているその言葉は、自分と相手との間で全く同じ意味であるとは限らない。ともすれば、違うことの方が多いかもしれない。その言葉自体が持っている雰囲気や、言葉を交わす人との関係性、そしてその言葉が発される場面。いろんな情報を加味しながら、会話の中でじわじわと擦り合わせた「言葉」で私たちは会話をしている。それは死角だろうか。視覚化可能だろうか。形にして取り出せたとして、それをもって人は本当に分かり合えるのだろうか。今改めて、PRIMAL CURVEはそんな言葉の不確かさと、不安定さと、そしてそれ故の安心感とに切り込んでいる。きっと今だからできるのだ。彼らだからできるのだ。音楽に文理など関係ないとはいえ、「1」は「1」であっても、「一人」が決して「独り」ではないように、言葉を武器にしてきたか、あるいはツールとしてきたかで、その見え方は変わる。だとすれば、音楽のカタチも、聴こえ方も、鳴らし方も、その中にある言葉の役割も、きっと千差万別のはずだ。

だから、彼らの答を見たい。意味をつかもうと近づけば近づくほど、真意にせまろうとすればするほど、するすると解けてしまうように逃げてゆく「言葉」に向き合って、彼らが出す答えを。

 

『言葉は死角か 視覚化可能か?』

今はまだ窓の外から -17/07/15 sumika ONEMAN LIVE 『Little crown #4』-

そのバンドが売れているか否かを一般大衆が判断する時に、もっともわかりやすい指針となるのが、「チケットが即完するかどうか」である。事実、某音楽番組では「今最もチケットが取りにくいバンド」というワードが、若手バンドが出るたびに放たれるのだから。

 

7月15日、Zepp Osaka Baysideで「今最もチケットが取れないバンド」を観た。まだ彼らはその番組には出ていないし、まだ当分出そうにもない。しかし、今一番チケットが取れないのは、sumika、彼らじゃないだろうか。

18時、フロアの照明がふっ、と落ちる。微かなざわめきが大きな歓声となってメンバーを迎え入れた。そこから終演まで、あっという間だった。次で最後の曲です、という片岡(Vo./Gt.)の言葉を聞いた時、まだ半分くらいじゃないの?と思ったほどだった。その体感時間からも明らかなように、彼らのライヴは、なんだか無性に楽しかった。騒いで楽しいだとか、知っている曲ばかりだとか、そんなことではなくて、なぜか心の底から楽しかった。ふつふつと、その場に居られることに喜びが湧いてくるような、そんな静かで、確かな楽しさだった。手拍子の感覚(間隔)、時々混ざる変拍子的なリズム、コールアンドレスポンス、シンガロング……初心者にはかなりハードルが高いはずだ。しかしそこにも、ついていけない恥ずかしさなどはなく、出来ないなら出来ないで「じゃあいいや」と笑ってしまえるような、自由さと、やっぱり「楽しさ」があった。それはそのまま幸福感にもつながり、会場を出る時、私はやけに上機嫌だった。

 

2ヶ月ほど前、友人に尋ねた。sumikaの魅力って何?と。「わたしはあのバンドを見て『幸せ』で泣く。」と彼女は言った。心を強く揺さぶるような音楽ではなく、感情を大きく昂らせる音楽ではなく、ただ心のすぐそばで、必要なだけのヴォリュームで鳴っている、あたたかい音楽なんだ、と。そんな彼女の言葉を反芻しながら、私はこの日、ステージを見つめ、その音楽を味わった。そして、彼女の言葉の意味が少しだけわかった気がした。なぜ彼らがこんなにも愛されるのかも。拳を突き上げたり、音の波に飲まれたりするような大きなライヴではなく、少し心が浮き立つような、たとえば四葉のクローバーを見つけたとか、帰り道で野良猫が撫でさせてくれたとか、そんな小さな幸せのような、日常にある一瞬の非日常が、sumikaの音楽であり、ライヴなのだろう。どちらかといえば「ライヴキッズ向け」ではないはずの彼らが各地のフェスに引っ張りだこなのは、彼らが求められているから、それだけだ。そのささやかな幸せのような音が、心の内側から火が灯るようなあたたかさを持った音が、求められているのだ。

sumikaとは「住処」である。誰にとってもの帰る場所。彼らはそうありたいと願い、ファンはそうだと言う。そんな関係性を美しいと思った。私はまだ、住処だとは言えない。この先だって、そんな風に言えるようになるかどうかはわからない。ただ、もっと、近づいてみたいと思った。

 

「いいね、しあわせだね」そう言おうとして、後ろの友人を振り返る。ほんの少し涙をにじませた彼女を見て言葉を飲み込んだ。彼女に私のそんな言葉は必要ない。何も見ていない顔をして、あの好きな曲やってくれたよ!と、いつものように自分勝手な言葉を吐いた。のぞきこんだ、窓の外から。

いつかその音が鳴り止む時まで -17/07/06 ユビキタス Acoustic One-man Live-

7月6日、江坂pine farm。広くはないライヴバーに、大勢のユビキタスのファンが集まった。Ba.ニケの誕生日パーティーも兼ねた、バンド初となるアコースティックワンマンライヴだった。ライヴハウスとは一味違うライヴバーの空気感、足を踏み入れるなりメンバーが出迎えるというアットホーム感、それらすべてひっくるめて、会場はどこかお祭り騒ぎで、ライヴハウスのあの独特の緊張感はなく、まるで少し大きめのホームパーティーにお呼ばれしたかのような雰囲気に満ちていた。

 

セットリストは、2ndミニアルバム「奇跡に触れる2つの約束」に収録の「イコール」から始まるという、なかなかにレアな選曲となっていた。新曲「美しい日々」と「嘘のはじまり」を立て続けに演奏したかと思えば、「パラレルワード」や「Moo」といった、発表が3年前にもなる懐かしい曲を披露し、その度にファンからは歓声と感嘆のため息、そしてときに感極まったが故のすすり泣きすらも聞こえてきた。アコースティックセットではあまりステージに立っていないこと、現体制でのアコースティックは全くの初めてであること、と不安材料は確かに残っていた。しかし、その力強くも繊細な演奏はそんな不安をかき消してしまうには十分だった。日頃から弾き語りで活動もし、アンプラグドなステージに立つことに慣れているVo./Gt.ヤスキに委ねるのではなく、きちんとアコースティックのユビキタスとして、バンドとして、そこに成立していた。ニケのベースにしても、NATSUKIのカホンにしても、いつもよりも粒立って聴こえ、3人で鳴らす音をそれぞれが彩っている、バランスのいい演奏だった。もちろん、アコースティックライヴとしては、コーラスに厚みが欲しいとか、もっと大幅なアレンジを効かせたセルフカバーのようなライヴになってもいいんじゃないかとか、注文をつけたくなる点もあった。しかし、この日のライヴにはその内容を超えてしまうような、大きな目的があった。

この日、フロアの一番後ろでは、病気療養を理由に4月末でバンドを脱退したヒロキがライヴを見ていた。そのステージにいるはずだった彼が後ろから見守っているという状況。仮に何も起こらず、ユビキタスが彼ら3人のままで進んでいたら、このアコースティックワンマンは実現しなかったかもしれない。3人でいることが当たり前だった彼らに突きつけられた、「当たり前だと思っていることは、本当は当たり前なんかじゃない」という現実が、失くしてからそのことに気づいた悔しさが、今の彼らを動かしているのだ。「1本1本のライヴを『こなす』んじゃなくて、全部を、1日1日を大事にしていきたい。」とニケは淡々と、いつものように茶化すこともなく、自分に言い聞かせるかのように語った。ヒロキが脱退した後、自身ら主催のライヴは一度もなかったからこそ、このタイミングで、ちゃんと自分たちの足で進んでいく決意を、覚悟をちゃんと表したかったと、ファンに対してもバンドに対しても、そして音楽に対しても誠実であろうとする芯の強さを見せた。また、ヤスキは「ここに立ちたくても立たれへん人がいる。立てるはずやったのに立たれへん。もうそれ、めちゃめちゃ悔しいやん。でも今俺らはこうして立ててるわけで、だとしたら、やりたいのにできひんことに比べたら、ステージ立ててる俺らがやりたいことやるなんてちょろいことなんよ。」と、いつにも増して飾らぬ口調で、ほとんど吐露したとも言えるほどにリアルな言葉を投げかけた。2人からあふれたそんな言葉は、3人でステージに立ちたいという願いが叶うかどうかはこの先の話だとして、少なくとも、ヒロキがバンドを離れている今でさえ、彼らは〈3人で〉ユビキタスなのだと感じさせた。

そう、この日のライヴは、ニケのバースデーパーティーというだけではなく、この半年での間にいろんなことが起きた彼らなりのファンへの感謝祭であり、さらには、現体制になったユビキタスの手による、これからもユビキタスはちゃんと前に進んでいくという決意表明を改めてする場でもあったのだ。

 

ユビキタスは決して華々しいバンドではない。ある日突然売れる!みたいなことがあるわけでもなく、コンスタントにフェスに出ているでもなく、仲のいいバンドや後輩バンドがメジャーに進出したり、着々と売れていったりするのを横目にしながら、それでも、腐らずに毎日毎日を地道に積み上げているバンドだ。少しずつ時間を積み重ねていく彼らだから、ぶち当たる壁も多い。しかしそんな彼らが見せる人間らしさが、それが滲みでている音楽が、より一層聴く者を惹きつけるのだろう。

ニケはMCでこう語った。

「バンドっていつか絶対終わりが来ると思うねん。理由はなんであれ、必ずやめなあかん時が来る。それでも、俺はその最後の時まで全力でいきます。」

無責任に夢を見せるのではなく、厳しくも現実的な言葉を並べ、その上で、いつか来る最後の時までを約束する。この日誕生日を迎えた彼の言葉は、やけに格好良くて、熱を帯びていた。